覚書(2)協力隊について

 地域おこし協力隊は、各自治体と個々の協力隊員の個性によって、一つとして同じ活動はなくて、わたしは内川地区でのわたしの活動しか知らないまま任期を終えたから、他のとの比較に乏しい、一個の経験だけを記すしかない。

 新たな取り組みと課題解決

 地域おこし協力隊という名称のためか、メディアなどで喧伝されている素敵風な広告のためか、協力隊の活動は自治体ごとに種々さまざまあるにも関わらず、なぜか、地域おこし協力隊というと、みんながみんな創意あふれる新たな活動や、地域の課題解決に熱意を持って取り組んでいるといった雰囲気が漂っているように感じられるのはわたしだけだろうか。
 少なくとも任期前のわたしにはそう感じられて、だから何か素敵なことをしなくては、と、少しく気負っていた嫌いがなくはなかった。

 しかし、別に新たな取り組みも課題解決も必ずしなければならないものではなかった。

1. 新たな取り組みについて

フライングした勇み足

 わたしは応募の段階で、活動案を制作し、A4用紙10枚ほどの冊子にまとめて提出していた。そこにはわたしが中山間地で展開できるだろうと想像していた様々な可能性のまとめていた。
 協力隊の任期がはじまったら冊子の内容を叩き台にして、地域の方々と話しあい、企画し、取り組んでいくのだと想像していた。地域おこし協力隊の活動というものは、協力隊が発案し、地域のなんらかの組織によってそれを実現していく取り組みだとおもい込んでいたから。しかし協力隊の活動は、少なくとも内川ではそのようなかたちでは動かなかった。
 それは協力隊の活動というものについてわたしが任期前に抱いていた想像と実際との間に大きな隔たりのあったためである。

思い違い

 協力隊は着任直後から斬新な企画を地域に提案することが求められていると思い違いをして、わたしは気負っていた。地域組織とともにそれをかたちにしていくのが協力隊活動だとおもっていた。しかし、地域はそんな大それたことをわたしに求めてはいなかった。地域を知らない者にどうして地域のためになる活動が考えだせるというのだろうか。

 じじつ、わたしの考案のどれもが内川の実態に則していなかった。例えば、農作物の収穫体験イベントのようなものを考えていたが、内川の田畑はサルによる食害被害で収穫体験どころではなかった。そもそもわたしが来たのはコロナウイルスの感染が本格的に拡大しはじめた時期だったため、地域の様々なイベントも軒並み中止となり、新規イベントを企画するなどもってのほかだった。それから、スギ材の活用として、割り板にし曲物を製造するなら大規模な機械が不要で活用できるのではないかと考えていたが、スギを自分たちで山から伐り出せないことが大きな課題なのであり、その先の活用は問題とならかった。
 つまりわたしの活動案は内川の実際から考えを進めたものではなくて空論であり、内川のなんらかの組織と一緒に取り組める質のものではなかった。

 わたしの成功するかしないかわからない活動案に地域が割ける時間的な資本はなかった。内川地区は中山間地とはいえ金沢市街が近く、地域の働き盛りの世代のほとんどは朝山を降りて、日中は街へ勤めに出ている。地域で自営するごく少数の人らも日々忙しなく働いている。内川の農地はそのほとんどが定年後の元気な年配者のおかげで維持されているが、その地域の大切な仕事でみな一様に忙しい。
 わたしのように月々の生活が保障されながら、利益生産性から解放された活動に時間を充てられる有閑な人間など地域に一人もいない。むしろ、地域は日々の生産に手いっぱいだからこそ、利益や生産性から離れて、さまざまなことに挑戦できる時間をもつ一人の人間が望まれた。それが協力隊なのだ。

 地域の方にこそ経験に裏打ちされたアイデアがあった。そして協力隊は地域からの助言を受けて、活動することが求められていた。
 つまり、協力隊はアイデアを提案し、地域が主体となってそれへ活動していくというわたしの想像は、あべこべなものであって、実際には、地域からの助言や提案を受けて、協力隊が主体となって活動することが求められていたのだった。

2. 課題解決について

 協力隊を呼ぶ以上は、協力隊に取り組んでほしいこと、協力隊が活動することによって実現するような地域の願いが内川にはあるはずだった。それでわたしは、次のような疑問を抱えながら、地域を知ることにつとめた。

 「内川は協力隊に何をしてほしいのだろうか、協力隊の活動によって地域がどのように変わっていくことを期待しているのだろうか。」

 このときわたしは地域に対して、協力隊にしてほしいことがあるなら言葉にしてほしいなどとは思わなかった。欲求を言葉にすることほど難しいものはない、ということを知っていたからであり、また、何ができるか何がしたいかわかっていない状態のわたしに、何かしらの具体的な活動を頼めるはずがないこともわかっていた。

 しかし、1年目の夏ころには、地域の大多数は協力隊に何も期待してはいないし、地域の課題を解決してほしいとも思っていないことを確信的に理解した。地域は協力隊がいなければ立ち行かないほど衰弱しているわけでは全然なくて、むしろみんな日々の暮らしを生きていて地域は活気づいていた。

 そもそも協力隊の存在自体まったく知られていなかった。
 これにわたしは安堵した。それまでりきんで地域のためになることを何かしなければ、と気負っていたが、そうした意識を持って仕事に望むことはわたしには向いていないことは自分で一番知っていたから、地域がわたしに何も期待しないでいてくれることがわかって、ようやく自分のリズムで息ができるようになった。

二つの問題意識

 今にして思えば、地域としては、地域が抱えている多くの課題のどれでも一つ、わたしの眼差しがその課題をとらえて、それの解決に向けて取り組んでくれればいいといった気持ちで見守っていてくれたのではなかったか。その眼差しは、地域おこし協力隊として内川のために課題を解決してあげる、といった外部から眺めるていのものではなく、内川のいち住民として憂いている地域の課題に向ける眼差しでなければならなかった。
 そうして身近に何かを問題視する意識には、なんとかしなければという意欲を含んでいる。解決への意欲を含まない問題意識は、外野からのやじに等しく、ワイドショーで何事にも憤ることで生計を立てている画面の中の小さな人間たちに類する者にしか許されていない。

 だから、わたしはたとえば学校の生徒数減少への対策や、複式学級ゆえの子どもたちの悩みへの支援など、教育面での課題解決に取り組んでも良かったし、高齢者一人の世帯が多いことから、そのような家庭の暮らしの不便さを解消するような仕組みを考案する活動もできた。あるいは金沢市民に内川のことを知ってもらうために、地域PRにつとめてもよかった。それらが本当にわたしに、なんとかしなければと思わせる課題であったならば。

 ただ、わたしはこれらの活動に取り組まなかった。わたしの単純な目には誰の目にも明らかな課題にしか向かなかった。

3. 活動の目指すところ

地域唯一の願い

 内川地区としてわたしに、唯一強く求めていることがあった。それは3年間のうちに、自立して生活できるような、地域資源を活用した何かしらの生業を見つけてほしいというものだった。もしそうでなければ、わたしは3年後に内川を出ていってしまうだろうから、というのが地域の方の考えだった。
 正直に言えば、協力隊終了後何かしらの生業で生計が立てられなくても、埼玉にいたころと同じようにフリーターをしながら内川に住み続けて、生業で食っていけるように励むつもりでいた。なんでもある程度器用にできるが、唯一お金を稼ぐことだけは苦手なわたしには、3年間で生業を作りだすことは望み薄だとわかっていたし、そして、それでよかった。しかし、地域の方々はしきりに心配した。
 今、なんとか地域の生業で食っていけそうな見通しがついたのも、わたしを心配してくれる地域の現実派の方々が、この夢想家に替わって、食っていくためのあれこれを創案してくれたおかげでしかない。

最重要課題

 生活していけるだけの生業が地域内にない、ということが実は、中山間地が共通して抱える課題の最たるものである。食っていけないから、地元で育った若者は市外へ働きに行ったり、家を離れてしまうのだし、生業がないところに移住を促せるわけなく、若者を呼ぶこともできないでいる。
 金沢市の内川以外の中山間地に訪ねたおりに、地域活動に熱心な方と話をすると、どこでも、地域に食べていける生業がないことを何よりも憂いていた。

 それで、わたしは、地域資源を活用した生業を組み合わせることで、どうにかこうにか1年1年を食いつないでいくことができるようになることを、3年間で目指すべきところとして、協力隊として自分がすべき活動を考えはじめた。だから、よその協力隊で間々あるような、協力隊任期中の活動に忙しくて任期後の生計のために時間をさくことができないという類いの悩みには、わたしは無縁でいられた。しかしおそらくこのような場合には短所もあって、協力隊としての活動の成否は直接に任期後生活できるかどうかに関わるから、協力隊の成否に地域と自分の将来の生活との二重の重責がかかるようになって、その責任は活動の足取りを重くさせるということがあったかもしれない。幸いわたしは、協力隊の活動は失敗するだろうとふんでいて、それでも、かつかつでも食っていきながら内川に住みつづけようと、気軽に構えていたから、この重荷からも無縁でいられた。

 中山間地では農業だけで食べていくのは難しいことがわかっていたため、農業の他に、何かしらの生業を見つけて、それらを組み合わせて食っていけるようになればいい、と考えて、その何かしらの生業となりうるものが内川にあるかどうか、まず何よりも必要なことは内川地区を知ることだったから、1年目は特になにに取り組むということもなく、ただ内川の四季を生活することで過ぎていった。

4. 地域課題と活動

 農業を中心にした複数の生業を組み合わせて食っていくことを念頭に、協力隊として1年間内川地区のことを知っていく中で、地域の課題が3つ見えてきた。

  1. 地域のたけのこ産業の衰退
     たけのこ名産地の内川でも、たけのこ農家の高齢化や後継者不足により、たけのこ生産農家が減少し、放置竹林が増加傾向にある。また、金沢市にとって春の風物詩となっていた、内川のたけのこ料理店が、店主の高齢化やコロナの影響により、全て閉業することになり、地域の伝統の味が途絶える危機が訪れていた。
  2. 害獣被害の増加
     山奥で人を避けて生きていたイノシシやサルが集落にまで降りてきて田畑の作物を食い荒らすようになった。特に器用なサルは電気柵による防護対策が困難で、どんなに丁寧にネットを張っていても、隙間を見つけて畑に侵入し、採り頃の作物を食べ散らかした。
     イノシシ、サルの食害について有効な対策を確立しなければ、内川で田畑を耕すことは絶望的だった。
  3. 森林の荒廃
     竹林、杉林、天然林、いずれも荒廃した森林が増加していた。どこへ目を向けても管理されなくなって久しい森林が広がっていて、かつては人々が利用していたために、整備されていた森林は、今や動物たちの領分になってしまっていた。錯乱した緑の繁栄はサルやイノシシに、わたしたちの視線から自分たちの姿を隠すための絶好の棲家を提供していた。

 2年目以降、これら3つの課題を解決に向けて、以下の3つの活動に取り組んでいった。

  1. たけのこご飯事業
     たけのこ料理の継承に向けて、まずはたけのこご飯を弁当として製造し、市内の農協の直売所3店舗で販売した。また、自分でたけのこを掘るために竹林管理をし、竹加工の継承に向けた研修にも取り組んだ。
  2. 獣害対策
     市内の他の地区に比べ内川はサルの捕獲頭数が少なかったため、特にサルの捕獲に取り組んだ。
  3. 小さな林業
     平野部で育ったわたしは山に関して無知だったから、まずは森林や林業について知ることからはじめて、どのような可能性があるのかを考えていった。
     それから、小規模による伐採で利益を上げることができるのではないか、と考えて、その実現に向けて動き出した。

 以上、覚書(2)おしまい。


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