金沢のたけのこ

 私たちが食べているたけのこを産する竹は孟宗竹で、日本の在来でなく中国南部原産です。日本に輸入されたいわれは諸説紛糾しているので触れないことにしても、金沢に孟宗竹が移入された経緯は記録として残っています。

 江戸時代、加賀藩の足軽岡本右太夫が江戸詰からの帰りに孟宗竹を持ち帰り、金沢市泉野町の自宅の庭に植たことがはじまりとされています。
 岡本右太夫の孟宗竹に向けた熱意ははなはだしく、明和三年(1766)に一度植えて生育に失敗しましたが、再び訪れた江戸詰の機会を逃さず明和七年(1770)に再度2本の孟宗竹を持ち帰り、みごとに成長させました。

 美味しいものを味わうこととその美味しさを言葉にすること、私たちはどちらもを口で行うために、美味しいものの話は広がりやすくて、それは昔の人たちも同じだったので、孟宗竹とそのたけのこのことも、すぐに金沢広域に広がっていきました。内川では最初に別所で孟宗竹が植栽され、数年の間に、三子牛、蓮花、小原、住吉などにも普及しました。

内川のたけのこ

 たけのこといえば内川の別所といわれるほど別所のたけのこが特別な地位にあるのは、長い栽培の歴史を持っていることのほかに、当地の地質が粘土質で保水力が高いため、たけのこ栽培に適していることも大きな要因となっています。

 30年ほど前まで金沢市内には各地域に小規模の農協があり、それぞれの農協が個別に市場へ出荷していました。当時内川地域には内川農協があり、たけのこを別所の集荷場に集めて、市場へ出荷していました。そして、別所集荷場から届くたけのこが美味しいと市場で評判となり、「別所のたけのこ」の名が広がっていったのです。

内川のたけのこ料理の興り

 江戸末期、加賀藩士は風光明媚な景色を賞玩するために内川地区をしばしば訪れました。春の到来とともに藩士が景物をたのしむために内川を訪れれば、白い冬の後ではひとしお竹林の緑が鮮やかにうつったことでしょう、それで、竹林に赴き、たけのこを掘り出して、「たけのこ一本料理所望」と言って、たけのこ料理に舌鼓をうつのが常でした。
 こうした風習が自然と別所につたわり、たけのこの季節ともなれば、親戚や知人を呼び集めて、珍しいたけのこ料理でもてなすことが行われました。内川最初のたけのこ料理屋は明治初年に別所町で開業され、たけのこの旬になると家族連れで料理屋を訪れる人々で賑わいを見せ、別所の名物となっていきました。

 しかし、たけのこ農家の高齢化、後継者不足により生産地は減少し、現在、放置竹林が増加しています。また、たけのこ料理屋も次第に営業する店が減っていき、コロナの影響もあり、令和3年には、内川で営業するたけのこ料理屋はなくなりました。

内川たけのこご飯の試み

 わたしは令和2年4月から、内川地域の地域おこし協力隊として活動を開始し、1年間たけのこの収穫から竹のまびき、竹の切り出し、竹材加工など、内川の竹産業に関わる作業を手伝わせていただきました。募集要項に「たけのこ料理の継承してほしい」という地域の願いを、わたしは、まあさきのことだろうとおもっていました。令和3年に、内川で営業するたけのこ料理屋がなくなると聞いたときには、わたしも驚きました。寂しいと思えるほどには、内川のたけのこ料理にたいする思い入れはありませんでしたが、それでも、おいしいたけのこ料理屋がなくなってしまうことを残念に思いました。

 そして、縁あって、令和2年までたけのこ料理屋を営業していた小坂さんにたけのこご飯の作り方を教わり、お弁当として販売することになりました。

2024年もたけのこご飯販売します。

 今年もたけのこご飯を販売いたします。よろしくお願いいたします。

 詳しくは、こちらから。