覚書(4)活動A:たけのこご飯事業

 内川地区は県内有数のたけのこ名産地として知られ、最盛期には、60戸ほどのたけのこ生産農家が年間250 t以上のたけのこを出荷していたが、現在では、たけのこ生産農家は約20戸、1年の総出荷量は100 t以下にまで減少している。そのために、放置竹林が増加傾向にある。また、十数軒のたけのこ料理屋が営まれていたが、2020年には3軒が営業するのみとなっていて、それらもコロナの影響もあり、2021年にはすべて閉業となった。

1. たけのこ生産の四季

 1年目は内川のたけのこ生産に関する作業を手伝いながらすぎていった。

たけのこ掘り

 4月はたけのこ名産地の内川が一番慌ただしい時期だった。わたしは着任さっそく内川地区のたけのこと稲作の専業農家のもとでたけのこ掘りを手伝わせてもらった。

たけのこ料理店

 内川のたけのこ料理店は例年GWを中心に4月中旬から5月中旬、たけのこの収穫時期の約1ヶ月間だけ開店し、大盛況を見せたそうだ。最盛期にはこの1ヶ月の営業だけで1年間生活できたといわれるほど。
 提供する料理は、たけのこご飯、たけのこの煮物、天ぷら、刺身、漬物、みそ汁、というたけのこづくし定食だった。わたしは食べたことがない。

 最も多いときで十数店あったたけのこ料理店は、店主の高齢化や後継者不足、1ヶ月間だけの従業員の確保が困難になったことなどから、わたしが協力隊になった2020年には3軒だけになっていた。
 そしてコロナの影響で通常の営業はできなかったため、2020年はたけのこご飯とたけのこの煮物、天ぷらのテイクアウトのみの営業だった。わたしはそのうちの一軒のたけのこ料理店の手伝いをしながら、たけのこ料理を教わった。

竹林整備

 良質なたけのこを生産するためには竹林のこまめな手入れが欠かせない。たけのこの収穫を終え一息ついた6月から秋まで、年に2、3度草刈りを行う。

 秋には、老化したものや、育ちの悪いもの、密集した場所の竹を間引きする。
 伐った竹は、業者に販売するために枝だけ落として長い幹をそのまま山の下まで引っ張り出す。
 枝葉や幹のあまりは燃やしてしまう。竹は油を多量に含んでいるため生のままでもよく燃える。

竹加工

 内川の間引き竹を利用した竹加工所が別所にある。そこでは竹の幹を割って、苗木の植栽時に目印に添える竹杭を製造している。山に植えた苗木は夏には周囲の雑草の成長によって、下草刈りの作業時にはどこに植えてあるのかわからなくなってしまい、誤って伐採してしまう恐れがある。そのために、上部を赤く塗装した竹杭を苗木に添えて目印にする。一度安価なプラ素材のものに変わったというが、下草刈りの要らなくなった頃に回収する手間が増えたようで、竹であれば、植栽した木が雑草に負けないほど成長した5年目になるころにはちょうどよく腐って倒れているし、そしてそのまま土に帰るため重宝されている。
 また、竹の枝を使って竹ぼうきもつくっている。

2. たけのこご飯事業

 2020年晩秋だったと思う。内川地区のたけのこ料理店がみな来年度はもう料理店を営業しないということがわかった。困ったことになった。

 協力隊の募集要項の活動内容で「たけのこ料理の継承」が盛り込まれていたにも関わらず、わたしは実は協力隊の任期中にたけのこ料理を継承しなければならなくなるとは思っていなかった。みんなまだまだ元気だからそんな必要はないだろう、と楽観的というか、希望的な予測を立てていた。

 しかし、たけのこ料理は地域の顔であり、是非とも残していきたいという地域の願いは強い。偶然、ここに一人、時間のある人間がいたから、取り組まないわけにはいかなかった。そもそもこういうときのためにこそ呼ばれたのだから。

 しっかりと地域伝統の味をまもって作ることができれば、売れることは確実だった。なぜなら内川のたけのこ料理店は金沢市内外の春の風物詩で、みな雪解けの頃には内川のたけのこ料理店へ行くのを楽しみにしていて、たけのこの旬の時期を迎えれば、内川のたけのこ料理店はどこも、最盛期にはこの1ヶ月の営業だけで1年間生活できたといわれるほどの賑わいをみせていた。そして、毎年のたけのこ料理を楽しみにしていながら、たけのこ料理店がなくなって残念に思う人々は、内川の味を伝えたたけのこご飯なら必ず買ってくれるだろうから。

 それで、確かな収入を見込めるこの活動はわたしにとっても大事なものになった。

方針

 コロナの流行まっただなかということもあり、店舗を構えての営業は難しいだろうということ、また、飲食店経験のない私に1年目から色々な料理はできないだろうことから、「たけのこご飯」一本に絞って、弁当として製造し、出荷のハードルが低い直売形式のほがらか村で販売するという形にした。ほがらか村はJA金沢が運営している産直所で、内川の住民の中にも栽培した野菜を販売している方々は多かった。

事業開始まで

 たけのこご飯事業は次のような流れで進めた。

  1. たけのこご飯事業の決定(2020年11月)
  2. 製造場所選び(2021年1月)
    候補として、
    (A)内川スポーツ広場内の飲食店の居抜き
    (B)空き地にプレハブのようなものを新築
    (C)住宅の台所を営業用に改修
     という三つの案があった。失敗する可能性も視野に入れて、またわたしが大きな動きが得意ではないから、(C)改築で進めることにした。
  3. 手続き(3月)
     該当の住宅が市街化調整区域だったため、特例措置の申請をするために面倒な手続きを行なった。
  4. 台所の改修、販売開始(4月)

3. 内川たけのこご飯の完成

 わたしが来たときにはすでにコロナの影響でどの飲食店も休業していたから、当然たけのこ料理店もで、だから、わたしは全くたけのこ料理店を知らなかった。地域のたくさんの方々の助言をいただいた。だから内川たけのこご飯はわたしがつくったものではなくて、ほとんど地域の皆さんで作り上げてもらったものだ。

味つけ

 地域にあったうちの1軒のたけのこ料理店にたけのこご飯の作り方を指南してもらった。ほとんどそのままの味つけで製造することにしたが、たけのこ料理店ではたけのこの煮物、天ぷら、刺身、漬物とたけのこ尽くしの中の一品としてたけのこ料理を提供していたから、たけのこの量はほどほどで、しいたけや、人参、油揚げなど、店ごとにたけのこ以外の具材を入れていた。

 わたしはたけのこご飯だけの販売だったから、たけのこの風味を存分に堪能してもらうために他の具材を入れないでたけのこだけにして、その量も大幅に増やした。

容器

 捨てやすい紙性であること、中身が見える蓋であること、という2つの条件で探していた。金沢市の中央市場の近くに、つつみのことという老舗の容器専門店があって、そこに行って色々と相談していい容器を見つけることができた。毎年非常に助けられている。

ステッカー

 自分でデザインする場合に、広く普及しているのはAdobeのソフトだが、近年サブスクリプション制になり、使用頻度が低いと無駄なコストがかかる。同じような使いやすさで買い切りのものにAffinityがある。デザインソフトのAffinity Designer1つなら10,000円ほどで買えるし、デザイン、写真加工、冊子編集の3つセットを25,000円で揃えることができる。
 デザインソフトは素人でも使えるような設計になっているから、入門書やネットのガイダンスを参考に3日ほど練習すれば、自由の思い描いた通りのデザインがつくれるようになるだろう。
 わたしは自分でできることは大概自分でしたかったから、ステッカーもつくったが、依頼した方が簡単だったかもしれない。ただ、自分でつくると、思い描いた通りのものがつくれるし、細かな修正などもすぐにできるのでよかった。

 ステッカーの印刷には、ラクスルとステッカージャパン両方つかったが、ステッカージャパンの方が仕上がりがよく、対応も早い気がした。ラベル屋さんの用紙を購入し自分で印刷するのは、安っぽく仕上がるのでおすすめしない。

HP

 インスタ、ツイッター、フェイスブックなどのSNSは好みじゃないという理由で使用しなかった。強いて言い訳をするならば、これらのSNSは最近ではログインしなければ詳しく見れない設定になっているため、それぞれのユーザーにしか情報が届かないし、せっかくわたしの発信した内容を見たいという人がアカウントを持っていないために見ることができない、という状況は非常に不誠実だと思った。特にたけのこ料理店に通っていた方々は年齢層が高いから、あまりSNSに詳しくない人に対してこそ伝える必要があった。
 また、発信しても、数えきれないほどあるアカウントの溢れかえる更新に埋もれてしまって、どこにも届かないということが目に見えていた。

 HPをつくることにした。ここがそれである。ステッカー同様、入門書などでなんとかこさえて、時々更新しているが、HPの方はどういう構造なんだか、いまだによくわかっていない。

 HPは予約のために作ったのだが、あまり予約する人もおらず、いても電話が多かった。それでもHPから予約してくれる人もいたし、また、たけのこご飯を販売終了した後に、わざわざ感謝と励ましのメールをいただいたから、つくってよかったと思う。
 イベントや、他に商品販売をすることがあれば、そのときにもHPで告知できると考えていたが、そんな機会は来なかった。これから来るのだろうか。

 公民館のHPを借りて、その中で更新したり、告知したりしても良かったのが、この場合、いちいち運営を委託している会社に頼まねばならなかったから、面倒だった。

メディア

 なんだか立派なことをしていそう、という勘違いのおかげで、地域おこし協力隊はメディアに取り上げてもらうことも多く、あまり華々しい活動をしていなかったわたしもたけのこご飯のときには大いに取り上げてもらった。おかげで、たくさんの方々に知ってもらって、たくさん売れた。多謝。

 ことのついでにお詫びを申し上げるが、何か掲載できそうなことをやる場合には連絡します、と言いながらついに任期終了まで連絡せずに終わってしまったことについては非常に申し訳なく思っている。それだからか、就任時市長へあいさつに行ったときには4、5社来ていたテレビや新聞の取材陣は、任期終了時の市長あいさつのときには1社にまで減った。

販売場所

 たけのこご飯がたくさん売れた理由はほとんど販売場所にあったといっても過言ではない。ほがらか村には毎日、新鮮な地域野菜が集まるから、美味しいものを求めてたくさんの人で賑わう。ほがらか村がにぎわっているおかげで、毎日たくさんのたけのこご飯を売ることができた。

4. たけのこご飯の実際

初日

 たけのこご飯は、昼くらいに農家さんにたけのこをもらい、午後に皮を剥き、細かく刻んで下茹でまでの仕込みをしておく。それを翌朝、米と炊飯し、炊き上がったら冷まして容器に詰めて、出荷に行く、という流れだった。今は基本的には、仕込みはわたし一人で、炊飯から包装までは彼女に手伝ってもらって二人で行っているが、最初は勝手がわからなかったので、地域の方々に応援を頼んで、手伝ってもらっていた。
 たけのこまつりでは毎年1日だけで1000個以上を製造販売していたから、地域の皆さんはたけのこご飯の大量生産には慣れっこだったから、頼もしい限りだった。

 初日は特に、余裕を持って多くの方に手伝いに来てもらっていた。その日は30分で売り切れた。大盛況だったからではない。炊飯を何度も失敗したから、予定の販売個数の5分の1程度しかつくれなかったのだ。

 最初に炊き上がった釜を開けたときのことを思い出そうとすると、頭はそれを拒絶する。失敗して全部めっこになっていた。つまり商品にはできないくらい、かたく炊き上がったのだ。

 炊飯器は白米だけなら最大5.5升炊ける巨大なものだった。本番までにした数回の試作は全て公民館の3升釜で、いつも上手に炊けたから、安心していたのだったが、5.5升釜では勝手が違っていて、しかも計算違いで、水の量を誤っていたのだ。台所の改修を終えたのは販売初日の2日前とはいえ、その釜で試作しなかったのはわたしの怠慢でしかなかった。

 その大量の、5.5升釜を二つ一度に使用していたから、100人前のたけのこご飯の出来損ないを目にして、わたしは生まれて初めて意識が遠のくのを感じていた。思考は完全に停止していた。
 手伝いに来てくれていた地域の方々が、その緊急事態に対処して、すべきことを考え、そして行動してくれた。売れるものを炊かなければならないから、とにかく出来損ないをひとまず釜から出してよけておいたり、同時に、出来損ないをもらってくれそうな地域の方々に声をかけたり、また、上手に炊くためのコツをたけのこ料理店に聞きにいったり、みんな一生懸命に動いてくれた。だから、わたしは完全に心は折れていたが、なんとか行動することができた。

 あの日は内川の象徴だった。わたしはこの先もどんな失敗をしても、そのときもまた地域の方々は助けてくれるだろうことを信じている。

成果

 1年目には23日間で約5000個、2年目には24日間で約4000個の内川たけのこご飯が売れた。休みない営業で非常に疲れた。3年目の今年は、もう少し販売個数が減り、3年目の余裕もあって、疲労をあまり感じずに終えることができた。

 欲目より惰性が勝るわたしには今年くらいがちょうどよかった、といっては、地域の方々にお叱りを受けるかもしれないが本心だから仕方がない。
 それよりも気づいたことに、忙しなくて余裕がないと、次への計画が頭が働かないということがあってで、1年目と2年目は正直にいって、その年の事業を反省し、来年度それへ改善することなどが全然考えられなかった。

 今年はそれができた。
 というのは、来年はたけのこご飯以外に、たけのこの煮物か、天ぷらかを作って、たけのこ料理弁当を作ろうかと考えた。この当然思いついていい進展が、1、2年目には思いつかなかったというのは、よほど忙しくて思考が停止してしまっていたということに他ならない。

狙いと失敗

 わたしは内川がたけのこの名所として有名であるのは、金沢市民の中でもある程度高い年齢層の方々の間であって、若い世代にはあまり知られていないことが気がかりだった。だから、ぜひたけのこご飯は、たけのこ料理店を毎年楽しみにしていた年長者に、たけのこご飯の味だけでもこれからも味わってもらうのはもちろんのこと、内川のたけのこ料理を知らない世代にも食べてもらいたいと願っていた。

 しかし、1年目はそれどころではなかったし、2年目も前年のそれどころではない思い出に引っ張られて、しかも再開したたけのこまつりに時間を取られて、それどころではなかった。3年目だけは本当に怠惰のせいで、若い世代への周知活動ができなかった。

5. 竹林管理と竹加工

竹林管理

 たけのこ料理店は、自分で竹林を管理し、そこで育ったたけのこを掘って料理していたから、高い利益で営業できていた。
 わたしは2年目までたけのこを購入していたが、次年度からは少しでも自分で掘ろうということで、竹林を借りて、自分で管理を始めた。

竹加工

 3年目、結局、任期終了後の生活のあてが見つからず、地域の方々の心配が増す中で、竹加工所には継ぐ人がいなくて困っているということを聞いた。わたしでよければ、どうですか、とおうかがいを立てて、弟子入りさせてもらうことになった。

 お師匠の目に入ると都合が悪い気もするが、わたしは協力隊就任前はお師匠さんにいい印象を持っていなかった。
 お師匠はわたしの面接時、町会連行会の会長として、地域からわたしを審査する席に座っていた。そして、わたしの自己アピールか何かが終わっての質疑応答の際に、厳しい目つきで「あなたは天気のいい関東での農業の経験がないかもしれないが、北陸は天気があまり良くなくて、雨の大変な中でも外で作業しなければならない時もあるが、そんなことは平気かな」といったことを聞いてきた。わたしはそのときの、瞳が大きく、目力が強すぎるだけだった表情を、わたしに不満を持った険しい表情だと取り違えて、そして「怖くて厳しい人だなあ、協力隊になっても絶対にこの人とは関わらないようにしよう」と思った。
 それが、結局はたけのこご飯も教わった上に、竹加工もその方から学ばせてもらうことになった。

 地域おこし協力隊という看板をおろした今のわたしの肩書きのひとつは、ありがたいことに「別所の竹屋 みならい」となった。

6. 分岐点と進まなかった先

分岐点

 たけのこご飯をはじめる前から、サポート会議などで「せっかく台所を改修して営業許可を得るのだから、他の時期にも、地域の食材を使って、何々ご飯をつくって売るのはどうだろうか」とみんなで考えていた。

 1年目のたけのこご飯事業が終わって、わたしもたけのこ料理店復活を目指して活動するか、どうか、考えてみないでもなかった。
 ただ、その頃には、たけのこ料理店が全て閉業したのは「店主の高齢化によって」と単純に表現できるものではないこともわかってきていた。
 たけのこ料理店の難点は営業期間が1ヶ月だけであることで、昔からのたけのこ料理店は、その他の季節にも主に農業など、季節ごとの自営の生業があったから1年の生計を立てられていた。
 また、たけのこ料理店の営業はどうしようもないくらい忙しなくて、10人以上の従業員を雇用していたという。
 ここにも課題があって、おおかた親族の協力で従業員を確保していたかつてと違って、現代において1ヶ月だけ人材を確保することは困難である。

 それで、わたしは、1年を通じた営業によって、従業員を年間雇用できる体制を整えることができれば、たけのこ料理店を復活させることができるのではないか、と考えた。つまり、たけのこ以外の時期にも何か地域食材を活かした料理を提供できるようになればたけのこ料理店を復活させられると結論づけた。そのときすでにたけのこ料理店ではなく、山の幸の料理店になっているだろう。

判断

 このような視点から、たけのこご飯事業の前後、地域の食材を活かした、まぜご飯、あるいは、何かしらの料理を考案することに努めた。しかし何も考え付かなかった。

 例えば、最初のたけのこご飯事業を終えたあと、内川に小高い山一面でミョウガを栽培している方がいるので、そのミョウガを使って混ぜご飯を試作した。冷ました白米にミョウガ、青じそを刻んで混ぜ込み、ごまとしらすを加えて、だし醤油で味を整えたもので、夏に食べるには、すっきりとしていて美味しいのだが、時間が経つとしらすが悪くなった。それで、しらすをワカメにかえてみた。美味しかったが、しかし買うかといえば微妙だった。それで商品化は断念した。

 山菜や、果樹など山ならではのさまざまな食材を少しずつ知るようになっていたが、協力隊2年目の最初の頃には、まだ内川でとれる食材に関する知識は完全なものでなくて、それぞれはわたしの中でまとまりを成してはいなくて、内川でとれる食材を中心にした料理を通年提供することが全く見えてこなかった。

 結局わたしには飲食店をしたいという強い意欲がなくて、その方へ頭が働かなかったのだった。
 地域に使える食材がないとかそういうことではなくて、むしろ、食材はふんだんにあった。しかしそれを活用するために頭が働かなかった。
 だから、わたしは他のご飯の開発やたけのこ料理店の再会へは進まなかった。

6. 内川の食材

 地域食材を活用した飲食店、という視点から見ると内川はどれほど豊穣であるか。

(1)山菜

 サルに畑を荒らされて以来、ばからしくなって野菜づくりを放棄したら、山菜により強い関心を持つようになった。
 3年間でわたしが自分で自由にとれるようになった山菜を挙げれば、ゼンマイ、ワラビ、センナ(葉わさび)、カタクリ、アサツキ、ノビル、ニラ、ウド、フキ、ヨシナ(カタハ・ミズブキ)、ミツバ、セリ、ヨモギ、タラの芽、コシアブラがある。
 それで、ここではサルがわたしの育てた野菜を盗んで食うようになり、わたしは、あべこべになって、自然に育っている山菜を採取して食べるようになったのだ。

 他にも食べられるものはまだまだあって、今年初めて、ゲブシ(ギボウシ)というどこにでもあるものを教えてもらった。これは地域の方でも知らなかったり、食べらることは知っていても食べない人も多いが、美味しかった。
 それから、どうもわたしの住む新保町の山上にある池ではジュンサイが採れるらしい。わたしはそこにサル檻をおいているから、よくいくが、ジュンサイがあるなんて思わないで、青空を写す水面をただただ眺めていただけだった。
 『内川の郷土史』によれば、わたしが挙げたものの他に、アザミやクズ、ジョウブも食べていたという。ジョウブはおそらくリョウブのことだろうくて、その若芽を摘みとって飯に混ぜたのだという。

 また食べる山菜の種類は地域差があるから、内川にも自生しているけども、習慣によってここの人たちは食べていないものもあるだろう。

(2)きのこ

 わたしに山菜のイロハを教えてくれた集落のおばあさんも、キノコ取りに行こうとは誘わなかった。山が荒廃して、キノコはとれなくなっているから、わざわざ秋の獰猛なクマに出くわす危険を犯す値がないからだった。しかし、色々なものがとれたと言っていて、『内川の郷土史』によれば、

「コケの種類はかなりある。新保辺りの呼称で、マツタケ、サマツ、オグラ、ネジタケ、コッサ・シミズ、ノメリ、シバタケ、モタセ、クマジク、イクチ、カッパ、ハナタケ等である。これらを塩漬しておいて正月の料理に出す。」

 とあるが、わたしにも何のことか皆目わからない。コケとは金沢の方言でキノコのことである。わたしはせいぜい、マイタケをとるくらいである。この天然のマイタケのうまさは栽培ものと比較を絶する。香りは芳醇、味わいは無限に豊かだ。

 キノコは天然のをとるものというよりわたしにとっては、栽培するものという印象が強い。原木で育ったシイタケの香りと味はこれまた菌床のものよりとは比較にならない。初めて原木ナメコを見たときにはみな一様に驚くだろう。一般に流通している菌床のナメコはほとんど小指の爪くらいの大きさだが、原木では、手のひら大とまでは言い過ぎかもしれないが、非常に大きく育つ。味の良さはいうまでもない。

 中山間地であれば、原木にできる木もそれを置く環境もどこにでもあって、ただサルに食われるかだけが問題だ。

(3)果樹など

 内川では昔から、特に山上の新保、住吉、小原の3つの集落では水稲や畑作の他に、さまざまな作物の栽培が取り組まれてきた。いま、内川を車で通ると、そこかしこで見られる、梅、銀杏、柿などが植えられた畑はその試みの結果である。これらの他に、ゼンマイ、ミョウガも栽培されている。
 かつてはわずかに栗が栽培するか、自生のものを採取するか、していたというが、現在では誰も出荷はしていないのではないかと思う。クルミも同様。

 このほかに、わたしは山に自生しているサンショウに興味を持っていて、春先の木の芽は佃煮、初夏の青い実も佃煮にしたり、最近ジンに漬けてみたら良い風味がついて美味しくなった、そして、赤く色づいたのは香辛料する。

 それから自然薯がある。栽培ものにはない強い粘り気と味わいは、苦労して山の中から掘り出すかいがある。

(4)肉と魚

 2020年前後の豚熱の流行で生息数が激減したイノシシは、数年で繁殖し今では元気に暴れまわってそこかしこに大きな穴ぼこをつくっている。生きていれば害獣だが、捕らえて捌けば美味しい肉だ。
 わたしはまだあまり皮剥ぎや解体が上手くなくて、ときどき肉は獣臭いことがある。生来鼻がちょっと効きすぎるわたしは、このような状況を予感していてハーブをたくさん育てているから、イノシシがとれたら、ハーブを摘んできて一緒に煮る。血生臭さは消えて、食べやすくなる。

 日本海に近い金沢だから、海産物が美味しいのはもちろんであるが、山には山の美味しさがあって、川魚もうまい。時期になると、登山の達人にほとんど釣っているのか、沢登りしているのかわからないような山奥へ連れて行ってもらう。イワナを釣るためだ。

 内川ダムのさらに山奥に、今は廃村になっている、菊水という集落がある。そこには、毎年、ヤマメだったように記憶するが、稚魚を放流している。漁業権を購入すれば、釣ることができる。
 現在菊水には誰も住んではいないが、出身者やゆかりの方々が、いまだに田畑を管理している。昨年、菊水出身で集落跡で畑をしている友人にイノシシが暴れて困ると相談されて、檻を設置することにした。家から遠いので見回りが面倒ではあるが、そのついでに釣りでもしたら楽しかろうと思っていたのだった。
 夏に設置した。3日も経たないうちに未曾有の豪雨が襲って、菊水への道路が寸断された。それっきりになってしまっている。友人は、せっかく置いてもらったのに申し訳ない、と言うのだったが、それどころではない状況になっている菊水のことを思えば、檻1基くらい、どうってことない話だった。
 道が修復されて、あの川沿いの美しい山並みを眺められる日がくることを願っている。

 わたしはまだ詳細な情報を得られていないのだったが、どうやら菊水ほど山奥に行かないでも、内川地区には川魚がいて、昔は川で獲っている人がいたという話を聞いたことがある。『内川の郷土史』には、「内川村誌草按」第一輯という古めかしい資料が引用されていて、孫引きすると、

「内川‥‥あまこ・いわな・鮎・鱒・鯎(うぐい)等を産して名あり、又字小原地内兜山の腰に俗にセト淵と称し、毎年鴨の集来する淵ありて地方狩猟者の猟する者多し」

とある。わたしはまだ内川で何も釣ったことはない。

 以上、覚書(4)おしまい。


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