覚書(7)生活について

 わたしが協力隊だったのは内川で暮らした3年間のうちの一部分の時間でしかなくて、それは規約で定められて、月毎の日報を提出している、1日8時間換算で月20日の間だけで、そのほか大部分の時間は内川のいち住民だった。

1. 内川の四季

美しい風景

 木々に芽吹きは訪れて、新緑に色づく山並みを春の花々が鮮やかにいろどる中にあって、竹の葉の色は静かに黄色く衰えて、枯れ落ちていく。たけのこに養分を費やすために葉の色を失うこの時期は竹の秋と呼ばれていて、やがてたけのこも掘られ尽くして、葉も落とし尽くした竹林には黄色い幹と枝だけがさみしく残る。
 広葉樹林の葉の色はどこまでも濃くなって、もう針葉樹の暗い緑色にも遜色ない。竹はすぐに新たな葉をはやして、内川にもう一つの新緑の季節が訪れる。一つ目の新緑、雪解けと長い冬の終わりを知らせてくれる広葉樹の芽吹きはあらたに眩しくて、その後の竹の新緑はあまり目立つものではないけれど、美しい。

 しなやかにたわんで大雪にも折れないせいか、タニウツギはどこの道路脇にもあって、叢生する細い枝は道路脇の山から道へ身を乗り出して通行の妨げになっているが、初夏になると薄紅色の花を咲かせたアーチに変わる。しぼめば再び邪魔者になる。それでも毎年毎年、同じ時期に同じ場所で車のミラーにハイタッチを求めてくる華やかな枝の姿は愛嬌があって憎めない。
 同じ紫の花でも藤と桐とは違っていて、藤が木々の梢から花を降らせる姿も、桐は横に伸ばした細い枝の先で円錐の花房を上に向けて支え持っている姿も美しい。

 鉄サビの赤色で海の近さを知るように、日陰を覆う苔でここが山の上だとわかるといえるかもしれなくて、実家にいたころには、家のどんな日陰にも苔が広がっていたという覚えはない。ほとんど古い寺院や森閑とした杜でしか目にする機会はなかったように思えて、わたしにとって苔は長い時の経過を感じさせるものだったが、ここではそんなことはなくて、窓の隙間から漏れて窓枠に積もった雪の跡にも、車の窓枠の隙間にもいつの間にか苔が生えている。あるいはここに来てそれほど長い時間が経ったということだろうか。とにかく苔はどんなところでも枯れずにある。それほど空気が湿っているのだろう。長い日照りに乾いた苔が梅雨を浴びて輝きを取りもどした姿は美しい。

 一様に緑だった山々は秋が深まるにつれて赤や黄色、さまざまに色づいていく。見渡せば花も紅葉もなかりけり、で、確かに見渡せば寂しいものではあるが、足元に目を向けると、落ち葉が散り敷いた深紅の絨毯は美しい。

 雪景色は美しい。

 雪は寒々しい集落を荘厳にする。冬の寒さが雪景色をうむから、その景色を味わうにはその寒さを芯から感じなければならないかもしれなくて、ひとしお寒い朝、外に出てその日最初に目に飛び込んでくる白い眺めは、それがわたしにどんなに面倒な雪かきをさせるものであるかに関係なくわたしを澄明な気持ちにさせる。雲間に青空がのぞくのさえ珍しいここで、稀に冬の快晴が訪れた日の、一面の雪とその上に広がっている蒼穹は美しい。

帽子を取る

 フィオナ・マクラウドあるいはウィリアム・シャープという作家が、スコットランドで会った漁師のうつくしい言葉を伝えている。朝まだきに帽子を取って海を見つめて立っていた漁師は言った。「毎日こんなふうに世界の美しさに向かって帽子を取ることにしている」

 帽子を脱ぐのは、敬意を表してであると同じくらい、親しみのあいさつを込めてだろう。わたしは帽子をかぶる文化をあまり持たないから、脱帽こそしないが、内川で生活していると、ときどき、この言葉を思い出すような瞬間に巡りあう。それらたくさんのうつくしい風景を観光者として訪れるのではなくて、その景色の中で暮らしていること、日々の生活の中にうつくしい風景を見出せることは喜びだった。

2. 風土

 わたしはここにくる前から、こっちの人たちから、北陸は雨の日が多く、またそれは冬になると山間部の降雪の多さにかわるという話を、たびたび聞かされた。

天気

 わたしの体がわりあい鈍感なたちだったためか、あまり内川で暮らしていても不満は覚えなかった。
 もちろんわたしの育った関東平野とはぜんぜん違っていて、こっちで暮らしてみて、やっぱり埼玉はいいところだったのだなあとあらためて感じることはあった。わたしが恋しいのは、冬のいっそう強い日差しでぬくまった、空っ風で揺れる窓ガラスの内の縁側の陽だまりで、日向の移りとともにわたしも座布団を移していって、いつまでも過ごしていた。金沢では、少なくともわたしの住む集落ではこれは望めなくて、縁側の窓ガラスの向こうには雪囲いがあって愛想もない。奥には雪が積もっている。冬に晴天を見ることは稀で、あっても家から青空はのぞめなくて、外に出て過ごすには寒すぎる。

 雨、曇りの日が多いというのも思っていたほどではなくて、いざ実家を発つというときに、これで家族ともお別れかと思うよりずっと強く、この強い日差しともお別れかと悲しんだほど、わたしは北陸はずっと雨か曇りで、晴れはせいぜい月に2、3度くらいだろうという極端な想像していたが、実際にはもちろん北陸の空も時々は青空を見せてくれて、ただ、雲ひとつない晴天はこっちでは希少で、晴れの日もどこかしらには雲が浮かんでいて、気づくとその雲が太陽を隠している。

 雲のかたちがこれほどたくさんあることをわたしは知らなかった。それぞれに名前がついているのも頷けて、時々、特徴的な雲があれば、近くの人に尋ねて教えてもらうのだったが、草木の類の名前を気まぐれに聞いてみても一向に頭に入らないのと同じで、わたしは雲の名前を一向に知らないままだ。

 それで一日晴れの日も少なくて、晴れと曇りと雨とははっきりと区別なく気まぐれに天気は移る。「冬に晴天を見ることは稀で、」と書いたときには窓の外は晴れていて、「今日は晴れだなあ。冬ももしかしたら晴れの日も多いのだったかな」と思っていたが、今では空は重い雲に覆われていて風はすでに湿気を含んでいてすぐに雨が降りそうだ。
 天気予報も当てにならなくて、どんな番組の予報もどんなアプリも正確ではなくて、唯一確かなのは今現在現時点でわたしの経験しているこの天気だけで、予想はできない。次善は年長者の勘だろうか。

湿気

 わたしの長髪は湿度計になっている。わたしの髪質はわずかに癖毛らしくて、生え際から半ばまでは、髪の毛の自重で伸びているが、毛先にかけては風呂上がりや、俄雨にあたると曲線を描く。
 湿気の少ない日には素直に流れているこの長髪は、内川では大体、空気はいつでも湿気を含んでいるから、わずかにうねっている。

 晴れが少なく、それもいつ曇りや雨になるかわからないし、部屋干しするにも湿度が高くて、乾きが遅くて嫌な匂いになりやすいから洗濯は困った。しかし除湿機を買って済んだ。台所の湿気も厄介で、1年目はしばしば食い物を腐らせた。これも除湿機が解決してくれた。

 この高い湿度は意識にのぼらない程度で、わたしたちの体と合う合わないがあるかもしれなくて、鈍感な質のわたしとここの風土が合っているのかどうかはわからない。しかし、いつも快適だと感じている。
 内川を初めて訪れたとき、一番気に入ったのは、住吉町の市街に向かってひらかれた畑に立ったときに感じた空気で、この空気の中でなら多分生活がいいだろうなと思ったのを覚えている。文字通り肌にあったのかもしれない。

 春と秋が穏やかで過ごしやすいのはどこも同じだろう。

 内川へ来て夏が好きになった。

 埼玉の夏はひとを殺しかねない。わたしは1日中炎天下で草刈りをしていたとき、扇風機付きの作業着なんて知らなかったから、薄い麻のシャツで働いていて、それが汗みずくに濡れて、休んでいるうちに乾いて、また働いて汗みずくになって、と1日に3回繰り返した日を覚えている。深く吸い込む息は喉を灼くほど暑かった。
 親父はせめて家にいるときにはクーラーをかけないと死んじまうぞと言っていたが、わたしはむしろクーラーの中から地獄の暑さの外へ出たらそれこそ死ぬと思って、クーラーは使わずにいた。そうして部屋にいるときは、極力動かずにいた。動くと体が暑くなって、全身汗ばんだ。

 内川の夏は、それに比べると快適すぎる。クーラーは必要なくて、ただ風が抜けるように窓を開けておけばいい。風鈴が結局涼しい音を響かせはしてもそれを鳴らしているぬるい風はぬるい風のままであるのと違って、内川を抜ける風は涼しくて、その風が揺らす木の葉ずれも涼しい。
 集落の上からなだらかに高まってゆく山は緑のに覆われていて、木々間を抜けて集落に降りてくる風は涼しい。集落には水路が巡っていて、下には水田、さらに下には谷があって、そこかしこに流れる冷たい水は集落の空気を涼しくしている。

 湿気が多くてじめじめしているという印象もないのは、気温があまり高くないせいだろうか。

 内川の冬が厳しいのは間違いない。特に、地域の半ばより上に所在する新保町、住吉町、小原町は、内川地区の人々からも別格視されていて、わたしが引っ越してきたことを話すと、「なんでわざわざあんな山の奥の方に?」とみな一様に、それだけの理由からわたしを変わり者扱いしたくらいだった。そのときはまだ春で、冬の厳しさを知らずにいたわたしは、みんな山奥に対して五十歩百歩のちょっとした侮りがあるんだな、くらいにしか思っていなかったが、冬になってわたし自身もどうしてこんなところへ来てしまったのかと思わないでもなかった。

 初めての冬、初めての積雪はわたしの精神を苦しくさせた。特に、冬の早い時期に三日三晩大雪が振り続けたときは苦しかった。朝に雪かきしても昼にはまた積もっていて、雪かきしても夕方にはまた積もっていた、というのが3日続いて、わたしは、もう冬が明けるまで雪は止まずに延々と降り続けるのだ、と勘違いした。それほどまでに、降り止まない雪は雪かきをしていない地面に高く積もっていって、その高さはわたしの絶望の深さに同じだった。

 3年経験しても、まだ雪かきは好きになれない。雪かきが必要なのは大体が大雪が降り続ける日だったから、雪かきも雪の中しなければならなくて、カッパの上下に降る雪は流れ落ちるとしても、1時間もすれば、ウールのニット帽は降る雪を絡め取って一回り大きくなるし、帽子からはみ出た馬の尻尾の長髪はオレンジピールみたいになっていた。家に戻って頭を振って落ちる雪が床で溶ければまだよかった。白いまま床に散らばった雪を見ると、それは家の中も氷点下に近い証拠だったから、腹が立った。
 雪かきほどわたしを勤勉にさせたものはなかった。というのは、他のどんなしなければならないものと違って、雪かきだけは、命に関わっていて、それを怠ればわたしたちの生活は封鎖される。除雪機が除雪できる高さは限度があるから、それ以上に雪が積もるまで雪かきを怠ることは許されなかった。家の前に降り積もった雪を見れば、どんな面倒な気持ちも押し潰さなければならなかった。

 金沢市の消防分団の行事に出初式というものがある。どんないわれとか意図とかはどうでもよくて、ただ毎年、正月にふんどし一丁になって凍えた水を浴びなければならない裸放水という酔狂の犠牲者がいるということだけを伝えたい。わたしは今年の初め、金沢城の堀の水を浴びた。内川に来てただ幸福にだけ過ごしてきた3年間に唯一の瑕がついた。その様子は、書くために思い出すことも苦痛だから、辛いとしか書けない。

 この裸放水に比べれば、雪かきはなんてことなくなった。

3. 人々

はじめに偏見についてただしておきたい。

 世間は偏見に満ちていて、世界は偏見でできているのではないかとさえ思う。だから、山の人間は云々という風聞に正体はない。
 最近、内川の壮年が、ご愛嬌の憎まれ口といったふうに、ねじれた理論をくだくだ述べて「だから海の連中は柄が悪いのが多い」とかなんとか言っていた。もう一人はそれに乗っかりながら「まあ海の人も向こうは向こうで、山の人間をこんなふうに言っているだろうね」と言っていた。わたしは心の中で「確かに。そして、町の人は田舎の人を悪くいうだろうし、その逆も然りだ」と続けた。
 自分の住んでいる場所は住めば都というより住んでいるから都なのであって、互いに他所を腐しあって面白がっている。この都鄙山海互いにくさしている様子は笑うべき戯画なのであって、それを間に受けるのが幼稚であるのは当然として、憤慨するのも、血液型診断で盛り上がっている場でそんなものは科学的根拠のない出鱈目だと水をさすのと同様に、無駄で無粋だ。

 又聞きか又々聞きくらいでよく耳にするものに、「田舎に移住したけど、地域が閉鎖的で住民に嫌なことをされたから、戻ってきた」のような話があって、そのたびに、果たしてその人は町では周りの人と仲良くできていたのだろうか、と疑問に思う。そして、同じくらいの頻度で「町の人間は冷たい」というような話を聞くことを思い出すと何かが間違っているという気が湧いてくる。

 町の人と山の人とは同じ人だから、どちらか一方とは親しくなれるが、他方とは親しくなれないということはない。わたしの実家は古い農家だったから、近所のひとや親戚、畑を貸しているおじさんやらがいくらでもうちを訪ねてきた。わたしはその人たちと会うたび話をしていて、そして、こっちへ来てから同じくらいのとしがらか少し上くらいの方々と話していても、別に違いというものを感じることはない。

親父の予言

 わたしが実家を出て金沢へ行くことを考えるずっと前に、わたしが大学卒業後も就職せず、中途半端に農業をしながら、アルバイトを続けて、そして、何やら色々と興味のあることに手を出していた様子の中に、おそらくヒッピー的思想を見誤って描いたらしい親父は、わたしに冗談めかして、「お前みたいなやつは一人で山奥にでも行って、自給自足でもして暮らしたらいいや」と言った。わたしは、冗談を受け取って、「ああ、それはいいかもしれないね」と返してみたが、この冗談は予言となって、意外にも半分当たった。

 一人ではなく二人だったことは置いておくにしても、確かにわたしは山奥に行った。しかし自給自足なんてとんでもない話だった。親父は山奥の暮らしはさぞ厳しいもので、だから一人ひとりは力強く自力で生きることを強いられていると考えたのかもしれないが、そんなはずはなくて、厳しい環境はかえってそこで暮らす人たちに支え合いを要求するもので、それで、わたしは山奥に行ったがむしろ自給自足からは遠く離れた。

 野菜をもらうなどなどはもちろんありがたいことだったが、わたしには、それら野菜や周りの山菜やらの食べ方からはじまって、過ごしやすい生活の知恵、冬の厳しい寒さと大雪のしのぎ方まで様々なことを教えてもらったことで大変助かった。
 例えば、ノビルは実家の近くにもあっ他のにとることをしなかったのは、美味しい食べ方を知らなかったためだ。新保のおばあちゃんに食べ方を聞いて、作ってみたら強烈にくさくて美味しかった。それはノビルを洗って綺麗にしてから、地面の玉から茎までを細かく刻んで、酢、味噌、ちょっとの砂糖であえたもので、おばあちゃん曰く「美味しいものだよ。わたしは年に2、3度食べる」と言っていた。どうして美味しいならもっと食べないのか、と思ったが、この批評は鋭いもので、本当に美味しかったのだがわたしも結局その年1度しか食べなくて、確かに年に2、3度くらい食べたい美味しさだった。

 ほとんど見聞きしたことは細かいことで忘れてしまった。

見守りと見張り

 田舎は監視社会、云々という話は、ほんとうだろうか。
 わたしは、見守られていると感じることがあるが、その視線を見張っていると受け取れば監視社会ということになるのだろうか。

 わたしたちの来たとき障子は穴だらけだったから、1年目の秋か、2年目の春かに貼り替えた。替えたてのまばゆい白さをみてはじめて、今までのがずいぶんと黄ばんでいたことに気づいた。それからしばらくして集落のおばあちゃんに、「あんた偉いねえ、自分で障子貼りかえて」と褒められた。貼り替えの作業をみたのか、あるいは道沿いのわたしの家を見やったときに新しい白さに目ざとく気づいたのか、わからなかったが、よく見ているなあと感心した。
 また、冬に雪かきの都合で車をおさめる場所を替えていたら、別の人に「あんた最近、どっかへ行っていたのかい? 車なかったけど」と言われたりした。

 だから1年目、雑草がおいしげるに任せていた家の周りのこともみんなはよくよく見ているのだと思って少し恥ずかしい思いをしたが、野放図な雑草の広がりはそのまま横着、倦怠、そして、能天気、わたしたちの気象そのもので、隠してもしょうがないことだったから、気にしないことにしたら、気にしなくなった。
 それでも、やはり草刈りは見た目が悪いし、獣を家にちかづける原因になって、しなければならないことだから、するようにはなった。他の人の視線を気にしてのことだったら、わたしは絶対にしないたちの性格だった。

 はじめの頃は、みんなわたしのことをよく見ているということが気がかりで、よい人間であるようにと見られようとしてみたが、疲れたのでやめた。やめたらより親しくなった。心身いずれにせよ、鎧うているまま誰かと親密になることほど難しいことはない。

 みんながわたしを見ているのは、別に粗を探そうとかいう意図はなくて、これは住んでみればわかることだけれど、人の少ない集落では、人の姿が珍しくて自然に目につくのだった。
 わたしは冬の日に、集落に雪の降るのを眺めるのを好きで、ぼんやりしていると、その中をゆっくりと動く影があって、集落の小さなおばあさんがゴミ出しに行くところだったのに気づくと、しらず視線はその姿を追っていた、ということがあった。それに、集落の人が何かわたしにわからない、わたしの知らないことをしているのを見たときは、何をしているのかわかるまで眺めていた。
 反対に集落の人たちがわたしの方を眺めたとしても文句を言える筋合いではなかった。

眼差し

 ましてや、昔から10軒しかなくて、他から移ってきた人などほとんどいなかっただろう集落に、似たような風貌の男と女が来たのだから、見ない方が無理というものだろう。
 あまり変わり映えしない顔ぶれの暮らしの中に、珍しい顔があらわれれば面白がるのは当然で、だから、親しく声をかけてきてもくれるし、はじめから変わり者扱いして話しかける人というのもいる。確かに内川にきたはじめのころには初対面で変わり者という目で見られることが少なくなかったが、それは町ででも同じだった。

 両親が初めてこっちへ訪ねてきたのは、3年目の秋も深まったころだった。せっかくだからと最初に能登まで足を伸ばし和倉で一泊して、翌日うちに帰ってきた。賑やかな金沢の街並みを抜けて、山への入り口みたいな緩やかな坂道へ差し掛かったころはまだよかった。息子はどんないいところに住んでいるのかと楽しみにしていた親父の表情がやがて雲りはじめたのは内川の半ば過ぎだった。道の両脇の森林から伸びた木々の枝が道の頭上高くで結ばれて、青空が隠れてからは、どこまで奥へ行くのか、ほんとうに着くのかとしきりに不安を口にするようになった。姥捨に行くのかと怯えたのかもしれない。しかしわたしは世話になった地域の山に親を捨てるほど恩知らずに育てられた覚えはなかったから、両親を家に招いた。
 実家から持ってきたソファに腰掛けていてもわたしがほんとうにこの家に住んでいると信じられないようで、親父は居心地悪そうに眉を寄せて、「早く飯を食いに行こう」と言って、来る前には「泊まらせてくれ」と無茶な要求をしたその家から、早くも出たがった。どうやら、わたしの住むまちはあまりにのびのびとしすぎていたらしくて、「こんなひとけのない寂しいところとは思わなかった」と言った。
 わたしの生活ぶりを聞く親父の眼差しには、息子への不理解が浮かんでいた。わたしが地理的によりもずっと心理的に遠い存在になってしまったことにはじめて気づたらしかった。あきらかに町の変わり者を見る目でわたしを見ていた。実の父でさえこれだから、初対面の方々に偏見を持たないで接してほしいと要求するのは無理な注文だった。

 それに、しばらく話せば、わたしの瞳に、スローライフな田舎生活への憧れも、自給自足への堅強な意志も、自己実現の野望も、宿っていないことには気づくはずで、変わり者という印象からすぐに脱皮をとげた。何をしたいんだか自分でもわかっていないまま生きている人間が珍しいなら変わり者として見られ続けたかもしれないが、幸いわたしはここでは変わり者扱いされずに住んでいる。

親交

 わたしが来たのはコロナの席捲と同時期だったから、地域の集まりもなくて、地域の方々とあまり顔見知りになることができずにいた。
 2年目にようやくポツポツと行事が再開されはじめ、3年目にはほとんどが元の規模で開催されるようになった。

 道沿いの両脇の茂みに生えている草木を行きしな帰りしなに眺めつづけることで親しみは湧いて、その開花はわたしへ向けた春のあいさつと感じる。そうして、周囲の山々は見知らぬ雑草雑木の生い茂る妖しい異界ではなくなって、視線の先にはいつも親しいものたちがいるのを見出す。
 知る人のいない集まりに参加するのは気後れがする。ましてや他の人同士は親しい知人であれば尚更だった、来たてのころは、数人の知人はわたしを気にかけてくれてしきりに声をかけてくれてはいても。
 それでも地域の行事に行くたびに、知った顔は増えていくしし、同じ人とも会うたびに親しみは増した。内川で暮らす日々が続けば続くほど、地域で関わる顔ぶれが増えて居心地がよくなった。

4. 地域の組織

協力隊とそれ以外の時間

 詳しく説明できないが、わたしには、協力隊頑張っているね、と言われるよりも、おはようやこんにちわのあいさつの方がずっと嬉しかった。それを知ってか知らずか、あるいは実際がんばっていなかったからか、地域の方から協力隊活動への言及は少なくて、ありがたかった。
 多分がんばっているねは、協力隊の活動への評価が含まれているような気がして、あいさつはただわたしへのあいさつでしかなくて、せいぜい親しみの濃淡が含まれるくらいだからだろうか。

 協力隊活動と地域での暮らしの線引きは容易にできるものではないことは確かであっても、協力隊活動が地域での暮らしよりもずっと小さくて少ないということも同じくらい確かで、地域での暮らしという全体のごく一部に協力隊活動が含まれている。これを倒錯させて、地域での暮らし全体を協力隊で包んでしまうと、協力隊活動を円滑するために地域の行事に参加しなければ、とか、頼まれごとは断らずに応じなければとか、飲みの誘いには喜んでのらなければということになる。すべきだからすることほど、人との関わりをつまらなくさせるものはなくて、そんなことはしないほうが双方にとって一番いい。
 だから、もし協力隊としてべきことが地域での暮らしのためにはかえって不利になるようなものならば、してはいけないし、そのようなことは、ほんとうには協力隊の活動としても不適切なものだろう。

 ここでわたしが断ったことを挙げられたらいいのだが、なかなか思い出せなくて困っている。もちろん、日程の都合で断ることは多々あった。
 わたしは、生活が楽しくなるために地域の方と親しくなることを望んでいたから地域の行事に参加して、頼まれごとはわたしに負担を強いるものでなかったから大体うけおった。コロナ禍であり、わたしはほとんど下戸だったから飲みの誘いは皆無だった。

公民館委員

 公民館委員は内川の各町会から1、2名ずつ選ばれて、1年間公民館の行事や運営に参加する。わたしの住む集落ではわたしと彼女が公民館委員である。地域の行事に参加しているし、その運営に関わることも楽しいものだ。
 彼女が、地域の人だったか、金沢の町方の人だったかに、わたしたち二人して公民館委員であることを褒められたとき「でもここの人の少なさを知っていたら、わたしたちじゃない誰でも、きっと引き受けるよね」と思ったという。
 そうかもしれない。

 地域の少子高齢化の問題はただ人が減ることにはなくて、それによって、いくらでもある地域のすべきことに取り組める人の数が足りなくなることにある。それで、一人一つの役割では足りなくなって、一人がいくつもの役割を担わなければならなくなっている。
 地域のすべきことは地域全体の暮らしにとって必要なことであって、わたしたちももちろん隠に陽にそれらの恩恵に預かっているから、それらのすべきことのうちで自分たちにできることはしなければならない、ということに気づくには3年ほどかかった。それが生活に支障をきたすほどの負担でない限りにおいて、というのはいうまでもない。

消防分団

 日本の消防は、いわゆる消防士たちが常駐している消防本部と、普段は本業を持つ地域の一般市民で組織され、有事の際に出動する消防団とで構成されている。内川分団は正式には金沢市第一消防団内川分団といい、定期的に訓練や点検を行いながら、地域の有事の際の出動に備えている。わたしは1年ほど前から内川分団に入団した。
 内川では大きな火事は少なく、幸いわたしは入団してから火事場に駆けつけることがなかったが、焚き火の延焼やぼやに出動した。
 その現場はわたしがはじめて行くわかりづらい場所にあって、内川の地理に詳しい地元の人からなる消防分団の必要性を痛感した。内川はたださえ散らばった集落の集まりで、その上、各集落は周辺に広大な森林を有しているから、有事の際、消防士が出動するより早く現場に駆けつけて、消火あるいは救助にあたることのできる内川分団が地域ではたす役割は大きい。

 消防分団に入団してはじめて内川に住むわたしより若い成人に会うようになった。それで同年代との関わりも楽しいものであることを思い出した。

内川振興協議会

 振興協議会は協力隊の受け入れ団体だった関係で任期中からお世話になっていたが、協力隊を終えてから、振興協議会の一員となった。加入してからまだ活動はないからこれから関わっていくことだろう。

 以上、覚書(7)おしまい。


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