加賀の森林の感想、ならびに木の葉と鳥の糞尿のこと

風の前の木の葉に似たる人

 マルクス・アウレーリウスは『自省録』の第10巻34で『イーリアス』を引用しながら、世のはかなさについて自分自身に説いている。

「まことの信念に身を咬まれている者にとっては、ごく短い、陳腐な言葉でさえも、悲しみなく怖れあるべきことを思わせるのに十分である。たとえば、

 吹きたる風のまにまに地の上に撒き散らさるる木の葉にも
 似たるは人のやからなるかな。

 君の子供たちも木の葉。さも信ずるに足るような様子で喝采し、称賛する人びとも、またその反対に呪ったり、あるいはひそかに責めたり嘲ったりする人びともことごとく木の葉。また我々の死後の名声をつぎからつぎへと受けついで行く人びとも同じく木の葉。なぜならばこれはみな

 春の季節に生まれいづ。

すると風がこれを吹き落とす。やがて森は他の葉をその代わりにはやす。はかなさは万物に共通である。それなのに君はまるでこういうものがみな永久に存続するものであるのように、これを避けたり追い求めたりするのだ。まもなく君は目を閉じるであろう。そして君を墓へ運んだ者のために、やがて他の者が挽歌を歌うことであろう。」

 祇園精舎の鐘の声、云々と、世の無常についてなら、わたしたちは、自然に暗誦できるほど馴染み深い名文をいくらでも持っていて、自省録のこの文章を特段ありかたがることはないし、ここから古代ギリシア、あるいはローマ帝政期の思想と中世日本の思想の共通性云々と言うのも陳腐にすぎる。ただ、時の強者もいつか滅びるのは、偏に風の前の塵に同じ、とは言っても、風の前の木の葉に同じとは言わない。
 木の葉といえば言の葉を思いおこすわたしたちにとって、人は風に吹き散らされる木の葉に似る、といわれるとなんだかさみしい。

死すべきもの

 ギリシアでは、言葉は翼を持つ。言葉は羽ばたいていくとかなんとかいう表現がどっかにあった気がしていながら、記憶の本棚のどこに収められているのだったか一向に思い出せないが、とにかくギリシアの言葉には翼があって、『イーリアス』でも「されば女神に向かって声をあげ、翼をもった言葉をかけていうようには、」云々とある。言葉がその音の響く範囲を超えて、人々の精神に羽休めしながら、どこまでも遠く広がっていくことを指してのことと思われるが、不死の神に対して人間を「死すべきもの」と呼ぶ古代ギリシアでは、魂を表すプシュケーが同時に蝶をも意味することも考えると、風前に木の葉のごとく落ちてゆく死すべき人間をよそに、落下を免れてどこまでも羽ばたいていく魂や言葉の姿は美しい。

 自省録に引かれた詩句は『イーリアス』第六書の序盤、戦場でアカイア軍の英傑ディオメーデースとトロイア方の強者グラウコスが相対していざ勝負というところ、戦場に響き渡る名乗りに現れる。戦場で死ぬかもしれない決闘を前にして、ディオメーデースは、「神とは戦わないが、」と前置きして、

だがもし君が、田畠のみのりを 喰ろうて生きる人間の 一人ならば
もそっと近くへ寄りたまえ、少しも早く 命の涯に行き着けるよう。

という。そしてこの恐ろしいディオメーデースの言葉にグラウコスが返答する。

まことに木々の葉の世のさまこそ、人間の世の姿とかわらぬ、
木の葉を時に 風が来って地に散り敷くが、他方ではまた
森の木々は繁り栄えて葉を生じ、春の季節が循ってくる
それと同じく人の世系も かつは生い出で、かつはまた滅んでゆくもの。

 ここにはアウレーリウスの『自省録』の中に漂うさみしさみたいなものはなくて快活さがある。そして、この快活さは、おそらく自省という精神によっては見出すことができない。
 自省録の自分を指して君と呼びかける言葉には、まだ自分のものにはしきれていない強い思想をもって、人間の弱さに由来する感情をいい伏せようと努める姿がある。人間はおそらく、人間よりも強く大きなものを仮構して、それに寄りかからなければ安息を得ることができなくて、だから、フローベールはその安息が得られない時代を「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期」と言っている。アウレリウスの自省録には、比類なき時代の最後を生きた一個の精神の、自らより大きなものによしかかって安らぐことのできないことへの苦しみが響いている。そして、おそらく、拠りをうしなってひとり人間のみがある時代に、自分の弱さを自覚して、自分の足で自分の精神を支えようとする姿にフローベールは偉大さが感じたのだろうと思う。

 ところで、田畠のみのりで生きる人間ならば、という文句は、ギリシア人たちの、神と人とそしてそれらの死生観とに対する考えに基づいている。神々が不死であることを前提として人間を「死すべきもの」と捉えているギリシアの人々によれば、不死の神々は、人々が食べるものは食べず、神の食べものを食べ、神の飲みものを飲む、すなわちアンブロシアとネクタールとを。一方死すべきものである人間は、死すべきものを食べて命をながらえているために、つまり生き物の死を摂取しているために、自身も死すべきものであらざるを得ない、と考える。このあたりの消息はロベルト・カラッソの『カドモスとハルモニアの結婚』という、読んでいると、これから20年先これ以上に面白い本は現れないのではないかというさみしさをさえ感じさせられる本にも書いてある。
 とにかく、こうした考えの上に、ディオメーデースは、田畠のみのりの死に養われて生きている人間ならば、神ではなく死すべき人間であるのだから、よろこんで戦ってやろう、そしてかならず葬ってやろうと息巻いている。グラウコスとは互いの先祖が友誼を交わした仲だったということで、けっきょく不戦に終わるのだが。

マルクス・アウレーリウス『自省録』とホメーロス『イーリアス』。

木々を育てる木々

 むかし、稲の苗をつくる床土に腐葉土がほしくて、武蔵野の木枯らしに翻弄されながら落葉を集めていたとき、落ち葉というものは非常にありがたいものなのではないかと思った。
 それというのも、木々が土中深くに伸ばした根で集めた養分を、落ち葉という形で地表に落としてくれなければ、わたしたちには土中にある養分をいかんともしがたくて、こうして落ち葉を集めて腐葉土にして作物を育てるための肥料とすることができずにいただろうから。井戸が手の短いわたしたちの喉を潤してくれるように、木々は地下の養分を汲み上げて葉を茂らせて、秋になると、わたしたちの頭上高くからその乾いた恵みを降らせてくれる。

 木々は、もちろん、人間を養うために落ち葉をおとすわけではない。冬をしのぐためである。同時に、落葉は自らが根付いている周辺環境を保持し、涵養している。腐葉土と落葉の堆積は、降雨の衝撃をやわらげ表土の流出を防ぎ、草や灌木が育つ柔らかな土壌をつくり、また、硬い地面に散りばめられた柔らかな絨毯はさまざまな小さな生き物の住処となり、食料でもある。

 木々は地下深くから栄養を汲み取り、葉を地表へ散り敷くことで、土壌を含めた周囲の環境を豊かにして、その豊かさはやがて自身をも養うのではないか。だから、木々は木々を育てるといえて、秋に落とした葉の養分が、いつかの春の芽吹きを養うことになる。

 わたしはその循環を断ち切って落ち葉を集めようと、乾いた冬、木枯らしに流れる枯れ葉を追いかけた。枯れ葉の下で、幾年も堆積し自然に朽ちて腐葉土となっている黒い土をかき集めた。
 腐葉土を山から持ち帰ることは、それほど当たり前のことではない。というのは必死こいて腐葉土を集めるような人間は現在ではまれな変わり者であるということではなくて、いや、むしろ、腐葉土やその元となる落ち葉を集める人間が稀有な存在になったから、その山に腐葉土があった。かつて、人々が生活のために山に落ちているものをかき集めていた時代には、わたしのような怠惰な性の人間は、みなに遅れをとって、山へ行っても落ち葉や枯れ枝や柴草を見つけることはできなかっただろう。まして落ち葉は落ちた側から綺麗にかき集められて、腐葉土となることなどなかっただろう。

『森林飽和』と『農業図絵』、加賀の海岸林

 わたしたちは、つい最近まで、平地の百姓であっても山や林にかよい、田畑を肥沃にするために落ち葉や枝葉を集めて腐葉土をつくり、また、燃料のためにも枝を集め、木を伐採していた。こうした地表資源を徹底的に収集し、最も消費していた時代は、『森林飽和』(太田猛彦)によると明治だという。そうしたころの里山は、現在わたしたちが好意をもって想像的に懐古する、緑生い茂り、風に木の葉はやさしくゆれ、鳥のさえずりが響きわたる、といったていの優しい風景ではなくって、それははげ山だった。
 確かに、江戸期に書かれた加賀の農書『耕家春秋』を絵ときした『農業図絵』に描かれているさまざまな農作業の背景をなしている山の様子は、それが絵描きの手抜きによるのでないのならば寂しいもので、山々に緑はなく、荒々しい土肌をさらしている。その景色は、山の一面を削られた採石場が周囲の緑の中で一点だけ岩肌を露出している様子とは違って、麓から頂まで一本の緑もなく、よくぞこれだけ収奪し尽くせたな、と昔の人々の勤勉さを思わずにはいられない凄さがある。

 こうした森林資源の徹底的な収奪の主な利用先であったエネルギーと肥料とは、近代にはいって地下資源によって安価にまかなわれることになったために森林は収奪を免れるようになり、山林は豊かさを回復する方向へ向かった。しかし、この人の搾取を免れて豊かになった山林の状態は、わたしたちには荒廃ともいえて、『森林飽和』では、世間のイメージとは逆説的に、現在の森林の問題は自然の豊かさによって生じていることを指摘している。

 例えば、能登の方では昔は家の裏の松林でマツタケがとれた、という話をよく聞く。そして、今では松林が管理さなくなり荒れたからマツタケがとれなくなった、と人は続ける。しかし、おそらく、それは正確な把握ではなくて、松林は人々に管理されなくなり荒廃したからマツタケがとれなくなったのではなく、人々が松林に価値を見出さなくなり、かつて燃料に用いるために行っていた松葉かきをやめたために、松林が豊かになりマツタケはとれなくなったのだ。というのも松茸は厚く腐葉土が地表を覆う豊かな林では育たないから。だから、マツタケは里山の豊かさの象徴では決してなくて、むしろ貧しさの証なのだ。
 義務教育で環境保全を全き善と教えられたわたしたちにはなかなか理解しがたいのだが、ときに自然の貧しさが人々に豊かさをもたらすし、自然の豊かさが人々を貧しくすることもある。きれいは汚い、汚いはきれいと予言する魔女なら、豊かは貧しい、貧しいは豊かとも言うかもしれない。

 もちろん人類の歩みが環境破壊だけに向いた時代は珍しくて、江戸時代にはすでに環境保全的な方向での森林の植栽がはじまっていた。特に海岸沿いの砂防林の育林は、日本海の荒海に面した地域では強く期待されていたものだろうということは想像に難くなくて、実際、加賀でも江戸時代から松の植栽がはじめられた砂防林がある。

 昨冬、加賀の海岸付近にある、江戸後期頃の松の定植により育林を開始されたという飛砂防止保安林を訪れた。あちらこちらで目にはいる松枯れ病にやられた松は、腐った枝が根元から落ち、樹皮は雨風に漂白され、剥がれていた。幹だけが朽ちて倒れることもできずに、生きていた頃と同じ様子で空へ伸びていたが、目線を下に落とすと、長年降り落ちた松葉の不朽で有機分が豊富になった地表は砂色ではなく焦茶に土色をしていて、一面を枯れ草や苔が覆っていた。そして、葉を落とした木は松枯れ病で死んだ松だけではなく、冬のために落葉した広葉樹もあって、やはり土壌は広葉樹の生育を許すほど肥沃になっていた。
 植栽された松が潮風に吹かれながら、砂地に根を下ろして育ち、雨風に揺すぶられて落とした枝葉は少しずつ周囲の砂地を豊かにして、砂地を森林にかえていった、そのただ中に立って、木々がもたらす豊穣を前にしても、それを人間は徹底的に収奪できてしまう恐ろしさ、という考えに引きまわされた。しかしたぶんわたしがどんなにがっぱになって木々を伐採しても、わたしの住む周囲の森林を収奪し尽くすことはできないのだろう。徹底的な収奪は徹底的な飢えによってでなければ行えないのだろう。

 徹底的な収奪ではなく、収奪の果てを省みての保護でもない、恒久的に自然から資源を汲み出す営みもある。

三富新田と鹿島の森、『百姓伝記』、尾籠な話

 埼玉県川越のあたりで、江戸時代に開発され、三富新田と名付けられた地域では、屋敷、耕作地、そして雑木林を不可分なものとしてまとめて地割りし、縦長に配置された屋敷と耕作地と雑木林という一揃いが、横に並んで隊列を組んでいる。その土地で、耕地を豊かにするために同面積の雑木林から落ち葉をかき集めて腐葉土化後、畑に投入し、さつまいもを栽培している農家などに取材したドキュメンタリー映画があった。
 監督は、彼らの落ち葉を利用するという考えも素晴らしいが雑木林の利点は他にもあって、それは鳥が餌を食べたり休むために来て、糞尿を落とす、その有機分も侮れない量なんだ、といった意味のことを言っていた。三富新田をつくった人もこの糞尿については想定していなかっただろう、と、続ける口吻には、この指摘は画期的なものだ、という自負が透かしみえた。

 確かに雑木林では鳥のふんが目につく。特にそれが常緑樹林であればなおさらで、昨冬訪れた照葉樹林の鹿島の森では、地面の残雪よりも、緑の葉の上の糞尿の白さにばかり目が向いた。
 鹿島の森は、加賀の福井県との南境付近にある、大聖寺川と北潟湖とに挟まれた陸続きの小さな川中島で、廃絶された万宝寺の鎮守の杜になっていたため、小島全体が照葉樹林として残っている。『石川県樹木誌』によれば、

「大聖寺川が海に流れこむあたりは、昔、入江になっていて、江沼湾あるいは竹の浦とも言ったそうである。この入江に大聖寺川の土砂が風波によって堆積して一つの島ができ、陸地と接続するようになった。このあたり一体を関東の鹿島に模倣したところから、鹿島と名づけられたのではないかとわれている。 //
 旧鹿島社の境域は周囲500メートル、高さ30メートル、3ヘクタール近くある。社叢の景観は、昔越前の者が一度伐り絶やしたことがあるとはいうものの、その後オノを入れぬ自然のままに数百年を経ているので、まったく原生林のおもむきがある。主木はシイ、タブ、ツバキなどで、これにイヌザクラが混生し、カラタチバナが赤い実を点々とつけている。また蔓植物としてトキワアケビ、ビナンカズラ等があり、老木にはマメツタがまつわりついて、おのずから温帯性樹林の特質をそなえている。動物にはカタツムリの一種ツルガマイマイが群生し、アカテガニ、クロベンケイ等のカニ類が多い。」

という。たしかに冬の終わりに訪れたときでも、遠方に望んだ鹿島の森は青い静かな海に盛り上がった濃緑の丘だった。そして森へ入ると、クスノキ、タブノキ、シイノキの大木の下で、ヤブツバキ、ヤブニッケイなどが頭上の木々がこぼした光を拾おうと枝葉を広げていた。その下にはアオキなどの灌木が育っていて、どの層も濃い緑の葉に満ちていて、森は薄暗かった。

 しかし、この糞尿による林への有機分の供給というのはどうなのだろうか。鳥が森林の木の種を食って、よその林でその種を含んだふんをすることで、樹種の豊かさには寄与していることは確かだが、有機分の供給量は微々たるものではないか、と思う。そもそも、その森林から餌を啄んで、どこか他所へ行って糞尿を落とす鳥もあることを思えば、損益はとんとんではないか。

 それはさておき、江戸期の人々はわたしたちが想像するよりも賢く、そしてわたしたち自身よりもずっとものを考えていたことを指摘しておきたいのだった。彼らにとって鳥の糞尿を利用することなんて当然の話なのだ。

 江戸期の農書の一つ『百姓伝記』の中に、苗づくりを和歌で説いた苗代百歌という風変わりなものがあって、その中の一つでつばめの糞尿を利用する方法が歌われている。

苗代に 竹をさしてハ なわをはれ つバめとまりて ひるもうするに

 また、歌には注釈があって、「其内に長き竹をさして、縄を張をけバ、つバめ羽を休め、かへし(糞尿)をするゆへ、つバめのふん、ひるも草(迷惑な浮草の一種)の毒たるゆへ、きゆる。惣しての鳥のふん、ひるも草の禁物なり。また苗代に諸虫わく故、さしをきたる竹に小鳥羽をやすめ居るうちに、虫を見出し、取て喰ふなり。さるによりて、往古に竹をさす也。」と言っている。つまり、苗代に竹をさして縄を張れば、つばめが羽休めにとまってふんをする、そしてふんはひるも草という厄介な雑草にとって毒になるから、雑草を殺してくれる。ついでに苗に害をなす虫を啄み、防虫もしてくれるという。

 本当かどうか、さすがにわたしも試したことはなくて、真偽は定かでないが、往古に竹をさすなり、というくらいだから、昔からしていたのだろう。

『農業図絵』と『百姓伝記』
『農業図絵』と『百姓伝記』。

古代地中海世界再び

 木の葉を落とす木が、自らが落とした葉の堆積と不朽によっても養われて、春には新たな葉を生みだし、そしてまた、秋には葉を落とす。こうして、木の葉がどれほど世界に豊かさをもたらしているかを把握し、木々を育てる木々の様を浮かべると、イーリアスの一節はより一層さみしいものとは思えなくなる。
 秋の木の葉が、次の春に芽吹いてくる葉とは無関係に朽ちて地に落ちていくのと、落葉した後で自らが木々を養い、それにより春の木の葉が芽生えると考えながら地に落ちていくのとでは、死に対する感情は大いに異なる。そしてこの捉え方の相違によって、ホメーロスの雄渾な詩句の中にアウレーリウスは自分が抱えているはかなさを混ぜ合わせた。
 以前は、立派な考えだなあと感心して読んでいた、アウレーリウスが自らのノートに刻んだ「空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。」という言葉も、今では、わかる。彼がこう思って生きて、書いているのではなくて、自らに強いてこう思うべきだと思いながら書いていたということが。そして、しかし本当にはこう思えずに生きていて、だから苦しんでいたのだろうと。あるいは、この、思うべきという思想と実際には思えない生きた感情とが擦れる苦しみがこれらの言葉を書かせたといえるのかもしれない。
 アウレーリウスは、万物のはかなさを云々しながら、そう思うことで慰めを得ようと努めている。自らの死の観念から逃れたいと願いつつ。『イーリアス』のグラウコスは自らの死を万物のはかなさの一つだとはおもっていない。それよりも彼の言葉からは、木々全体の繁栄を信じている強さが浮かび上がってくる。

まことに木々の葉の世のさまこそ、人間の世の姿とかわらぬ、
木の葉を時に 風が来って地に散り敷くが、他方ではまた
森の木々は繁り栄えて葉を生じ、春の季節が循ってくる
それと同じく人の世系も かつは生い出で、かつはまた滅んでゆくもの。

 かつは生い出で、かつはまた滅んでいく木の葉が個々の人間であれば、繁り栄えて葉を生み出す木とは何であろうか。グラウコスにとってそれは、彼の家系であり、さらに大きくトロイアであっただろう。一般にいえば一個の文明、一つの民族だろうか。それとも言語だろうか。イーリアス、あるいはイーリアスを歌い上げたホメーロスも木の葉であれば、それを春に生み出し、そして秋には地に散り敷いた古代の類まれな大樹はギリシア文明といえて、その大樹は腐りかけたころにアレクサンドロスが伐り倒された。そして数世紀後、ホメーロスという大きな一葉とそのほかのさまざまなギリシアの遺産は、多様な民族、多様な文化を接木した古代ローマ帝国を育んだ。マルクス・アウレーリウスもまたこの巨大樹に生えいでてそして落葉していった一葉だった。
 アウレーリウスの精神は彼の生きた時代の1000年前に歌われたイーリアスによっても養われていて、自省録を残した。そして、2000年後の人々はアウレーリウスによって精神を養われているといえるかどうか。

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