冬の足跡

帰路

 竹加工の手伝いが午前で終わり、別所の作業小屋を出ると景色は白かった。早朝からまただいぶ降ったらしかった。山上へのぼっていく帰路にはわだち跡はない。山を下っていく対向車線がきざんだ二本線を横目に眺めながら、新しいわだちをつけて進んでいく。対向のわだちが寄ってきて、ついにわたしの車のタイヤは向こうのわだちの内の右側の一本を踏むようになって、後ろには三本線の足跡だけが残る。さらに進むと完全に車線は一つになって、そのあたりからは対向車のわだちはほとんど雪で埋もれている。もうみんな町へ出るべきひとたちは早くに出尽くしたのだ。
 集落の主線から家に入る坂道には、わたしが家をでてわずか2、3時間のあいだに分厚い白絨毯が敷かれてしまっている。わだちはもちろんなかった。ただ足跡が、点々と玄関の方へ続いていた。わたしの車が左右のタイヤでそれを跨いでいった。

せっかく1ヶ月かけて融けた雪も1日で台無しに。また真白い日々がつづくのか。

足跡

 金沢に来てから、興味深く眺めるようになったものに、雲の形と雪の上の足跡がある。冬になると家の周りが獣の足跡で囲まれて、人間のものはかえって珍しくなる。それでようやくここがわたしたち人間のすみかである以上に獣たちのすみかであることを思い出す。
 そもそも冬にわたしたちが歩ける場所は少ない。膝丈まで積もってしまえばもう雪の上は身軽な動物の領分で、二足歩行で進むのはイノシシを追って山を駆けずり回る猟師か、あるいは酔狂でしかない。酔狂もときどきはいいけれど、動物のように毎日とはいかない。それで動物の足跡だけが雪の上に増えていく。

躊躇いなく進んでいるウサギの足跡。いつもの道なのだろうか。

 そして、たまに人間の足跡を見つけると、いつも思い出す文章がある。
 ベンヤミンの書いた短文で、わたしはこれを『ベンヤミン・コレクション6 断片の力』のなかで見つけた。

パイプ


 散歩に出かけたとき、たまたま、親しくしているある夫婦と出会って、一緒にいくことにした。この島でわたしが住んでいる家の、まだ近くだった。私はふとパイプを喫いたくなった。いつものポケットを手探りしてパイプが見当たらなかったとき、ここならまだ自分の部屋から持ってくるのに好都合だと思われた。パイプは部屋のテーブルの上にあるにちがいなかった。手短に友人に頼んで、私がパイプを取りに行っているあいだ、奥さんと先に行ってもらうことにした。私は家に取って返した。ところが、まだ十歩行ったか行かないかのうちに、よく確かめようとして、ポケットを押さえた手にパイプの触感があった。そういうわけで先に行った二人は、まだ一分も経っていないというのに、もう私が、パイプからもうもうと煙を立たせながら自分たちの傍らにいるのを目にする、ということになった。「パイプはちゃんとテーブルの上にあったよ」と、私は、自分でも不可解な思いつきのままに説明した。友人のまなざしのなかに何かが浮かんだ。それは、目覚めた者が深い眠りのあとで、いま自分はそもそもどこにいるのかが分からない、というのに似ていた。私たちは先へ先へと歩いてゆき、会話は会話で進んでいった。しばらくしてから、私は会話を先ほどのパイプの件に戻した。「どうして」、と私は訊いた、「君は何も言わないの? だって私が言い張ったことなんて、どう考えたってありえないじゃないか」。「そりゃそうさ」、と彼は少し間をおいて答えた。「私だって、何か言ってやろうと思ったさ。でも、そのとき考えたんだ、〈きっとその通りなんだろう〉って。〈どうして、このひとが私に嘘をつくなんてことがあるだろう?〉って。」

 埼玉ではじめて読んだころからだったか覚えていないが、すくなくとも金沢へ来てから読むといつも、ドイツ、ベルリンあたりのうっすらと白雪が積もった道路が背景として浮かんでくる。別に季節も場所も名言されてはいないのに。
 昨夜に降った粉雪もまだ誰にも踏まれていない早朝の道に続く三つの足跡が仲良く並んでいる。そして、そのうちの一つは引き返し、しばらくして再び踵を返して先をゆく二つの足跡にまた合流している。

 しかし実は、この文章は『孤独のなかから生まれてきたお話』という四つの短文の連作で、その一つ目は「数か月来、私はスペインの、岩山のなかのある小さな町に滞在していた。」と始まっていて、「パイプ」でいう「この島」というのはイビサ島である。しかし、それでも、この文章には雪が積もっている。

 雪が降っていたら、足跡でベンヤミンの嘘がわかってしまうじゃないか、文章が成り立たない、だなどとはどうぞ言わないでほしい。
 ベンヤミンが何気ない嘘をついたとき、たしかに友人は、振り返って雪に刻まれたベンヤミンの足跡を見つけて、一目瞭然だったのだ、そして、それでもなお〈きっとその通りなんだろう〉と考えたのだ。だからそこに美しさがある。
 ベンヤミンたちの歩む雪景色を信じてほしい。どうして私が嘘をつくなんてことがあるだろうか。

 『ベンヤミン・コレクション6 断片の力』てきとうに開いた頁を読むだけでも楽しい本。

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