散木についての散文

散木のこと

 『荘子』の内篇 第四 人間世篇に散木がある。

 大工の棟梁とその弟子が旅先の村でその村の御神木らしい世にも稀な大きさのクヌギを見かけた。巨大で立派な木に見向きもせず素通りする棟梁のようすに驚いた弟子は、こんな立派な木をどうして無視するのですかとなじった。それに対して師匠は、馬鹿なことを言うな、と叱った。
 師匠曰く、あの巨木は「散木」であって、船をつくれば沈み、棺桶をつくればすぐに腐り、道具をつくれば壊れる。門や戸にすればやにが流れ出るし、柱にすると虫が食い尽くすだろう、というのである。「是れ不材の木なり。用うべき所なし。故に能く是くの若くこれ寿なり。」

 散には役に立たないの意味があり、つまり散木とは無用の木のことである。大木はなにをつくるにも欠陥があって材として無用だから伐採されずにすんで、それゆえにこそここまで立派に大きくなったのだ、という皮肉はたしかにいい比喩だ。
 かつて材価が高いときに植林されはしたが、材価低迷を受け、伐採適期を過ぎても伐り出されることなく、いたずらに育っていく杉林について、日本の山はどんどんと資源が豊富になっている素晴らしい状態だ云々と、詭弁にもならない考えを持っているひとびとに、ぜひ読んでもらいたい文章ではある。

金谷治訳注の岩波文庫『荘子』と、森三樹三郎訳注の中公文庫『荘子』(絶版)

無用は長命のたすけ

 この話には続きがあって、大工の棟梁が無用の大木を小馬鹿にして素通りした日の夜、夢にクヌギがあらわれる。
 クヌギがいうには、柤(コボケ)、梨、橘、柚、瓜のたぐいは、いずれも実が熟すともぎとられて辱めをうける。しまいに枝ごと折られたり切られたりする。「此れ其の能を以て、其の生を苦しむる者なり。」それゆえ、才豊かな者はかえって天寿を全うできずに若死する。世間の万事これに同じこと。
 そして、自分はしいて世間にとって無用となることで、長寿を全うするという自分自身にとっての大用を得たのだ。だから、大工としての用無用を尺度としてわたしを批評するなどはなはだおこがましいと、説教する。「死に近き散人、またいずくんぞ散木を知らんや。」と。

 この死に近き散人という、うつくしい言葉はどういう意味か。よほどひねくれた表現なようで、この一文を、岩波文庫では

 「〔お前のような〕今にも死にそうな役だたずの人物に、どうしてまた役だたずの木〔でいるわし〕のことがわかろうか。」

中公文庫では
 「お前のような死にそこないの散人〈ろくでなし〉に、散木のわしのことがわかってたまるものか。」

と、なんだかわかったようなわからないような訳し方をしている。なぜ大工は死に近き散人であり、なぜ死に近き散人は散木のことがわからないのだろうか。

 有用木が有用のために夭折するように、巨木が散木であることを見抜く眼力をもつこの大工が有用であるから若死するだろうことを指して死に近きというのか。そして、有用ゆえに自らを死に近づけていることを、無用の用を大用と見るクヌギにしてみると無用だから、散人というのだろうか。
 あるいは、大工は文字通り死に近い老人で、有用なものは夭折するという主張からいえば、この大工がそれほど天寿を全うできたということは、大工としての技量は世の役に立たない程度に低いもので、それゆえ散人となじっているのか。そして、クヌギの巨木を散木と見做していい気になっている散人の大工には、散木の世に対する無用さが自分自身の大用へと転じることを知り得ないだろうといっているのだろうか。

 いずれにしても、大工の鼻を折ろうとしていることはわかる。そして大工はこの夢の中の説教でクヌギに崇敬の念を抱いた様子で、翌日、こんどは自分が弟子に講釈をする。

有用もまた長命のたすけ

 ところで最近、樹木が長生きできる理由について、『荘子』のクヌギの主張とはぜんぜんちがうものをかんがえていた。
 以前、山あいの集落の立派な農家を訪ねて、茶の間につかわれていた立派な黒柿の柱を見せてもらった。それがかつて立木だったときの話を聞いたり、また、栗の立派な古材をみたりしたときに覚えた感動の根底には、これほどの材がとれるだけの立木に育つまでよく待っていられたなあ、という持ち主への敬意があった。立派な材がほしいが身近に伐っていいような立派な木がないという、欲求と不満の状態にあるいまのわたしでは、これほど大きくなるまで木が育つのを待てないだろう。
 つまり、材として有用なのだから、はやく伐ってしまおうとわたしならば考えるということで、これを裏返せば、クヌギの大木が嘆きどおり、有用ゆえに短命となるはずだが、しかし実際には巨木にまで育ってから伐られた証としてそこに立派な材があって、それがわたしを感動させた。

 ところで、栗の木というのは、山間のかつての暮らしにとっては、大事な財源であったという。それというのも、実を集めて、街まで売りにいくことで金銭に変えていたというのだ。そして柿も、また、そのほか果樹はいずれも山の暮らしにとっては重要な食糧源だったのだろう。
 そうであればこそ栗の木はおそらく材として有用ではあっても、それ以上に財源となる実をもたらしてくれる有用な木だから、伐採せずにおいたにすぎなかったのだろう。そうして育った木からとられた材こそわたしが目にして感慨をもらした木材だった。

 クヌギの主張どおりに実のなる樹木は自らの生を苦しめることがあるが、一方で実を結ぶことで生を長らえるということもある。

用無用

 そもそも結実による有用と木材としての有用とは、全然意味合いがちがっていて、そしてこれら二つの有用は両立ができる。しかし、それが生きてあることで有用であるか、それが死ぬことで有用になるのかの違いには、大きい隔たりがある。有用性が自らの不幸を招く、という主張の例としては、この二つの有用性を並列することはふさわしくないように思われる。
 クヌギの不幸というのは、かなしいことに、有用であるからというよりは、材としてしか有用でないところにある。たしかにクヌギは薪や炭、シイタケ榾木などに最適の良材で、だからさかんに伐採されたのだろうが、もっと人間に有用な、美味しい果実を実らせることがあれば、『荘子』の巨木以外のクヌギもきっと長生きしたのではないか。

 このあたりの山間部で炭材として10年程度の周期で伐採されていたコナラの夭折はなんと哀れなことだろうか。しかし、街で炭や薪が姿を消して、山では炭や薪の原材は伐られなくなり、かえって存在感をました。そして数十年も育って、現在大径木となったコナラは扱いづらい無用の散木となった。果実収穫の採算があわなくなり一足先に散木となっていたカキなどの果樹とともに、散木の暮らしを謳歌しているところだろうか。そして、伐採適期を迎えたまま伐られることのない杉林も。

再び荘子の散木

 このクヌギの巨木は自らを無用ものと決めつけているが、本当に全くの無用の木だろうか。クヌギの巨木が無用と自称するそれは材としての話で、立派な大木のもとにひとは憩う。これで無用と言えるか、どうか。頑固な顔をして孤独を貫こうとする意志を立てる大木のもとで、そうとも知らずにひとびとはあつまって安らかな午睡をあじわうということもある。
 じっさい、大工の棟梁と弟子がこの巨木を通り過ぎるときには、巨木の周りは「観る者、市の如し。」と、大勢の人々が集まって賑わっていた。そもそもこの散木はその村の御神木である。その木に親しみがもてなければどうして御神木にしようなどとおもうだろうか。

 実は、大工の棟梁が夢でクヌギの散木に説教された明くる朝、弟子に夢の話を聞かせると、弟子は、それではクヌギの巨木はみずから無用になろうと願いながらどうして神社の神木になどなったのでしょうか、とわたしと同じような心理から発される問いをなげかけた。それに対して師匠は、うやむやな説教を垂れる。
 「わからずやどもが悪口を言うのがうるさいとおもった」から、崇敬される神木になれば悪口もいわれずにすむために「あの木はただ神木の形をかりているだけだ」とか「神木にならなくともまず人間に伐り倒される心配はない」とかごむにゃむにゃと言ったあとで、「あの木がたいせつにしていることは世間一般とは違っている。それなのに、決まった道理でしそれを論ずるとは、いかにも見当はずれだね。」と自分だけはわかっているような一丁前なことをいう。その日が昇る前の夢のなかでは、同じようなことを説教されていたくせに。
 けっきょく、大工の棟梁は弟子の問いに真正面に答えていないで、誤魔化している。あるいは、この棟梁、じつはまだ夢でなされた説教を完全には理解していないのではないか。

 ともかくこうした世間からの意識的な超脱というものが心から求められた時代というものがあったのだろう。

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