春の木陰と『北欧 木の家具と建築の知恵』

春の木陰と椅子

 朝の部屋にはまだ冷えこみがあるといっても、裏山から差す日の眩しさは春だった。
 一面放置竹林だったのを昨年一掃した裏山のところどころに横積みされた枯れた竹が春の日で温められて、乾いて割れる音がする。家のなかは朝日であたためつくされてはいないでも、その弾ける音の響きにはあたたかさを感じさせるものがある。裏山と反対側の田圃ではカエルが鳴いている。家の外に出ると、田んぼにはすでに水がはられていた。一週間前に田んぼの畦まわりや、わずかばかりの窪地に残った水たまりで狭そうにしていた黒い卵の連なりから、オタマジャクシは順調に孵化したのだろうか。

 春の陽気に気をよくして外でぼうっとして過ごそうかと思いたって、コーヒーと本とスピーカーを家にとりにいった。しゃらくさくなってコーヒーは飲み干して、本とスピーカーだけを持って裏庭に回った。途中でいつか自分でほったらかしたらしい折りたたみ椅子をひろった。
 昨秋、ひまつぶしに剪定の真似事をした甲斐があって、むたむただった庭木はちょうどよい木陰をつくってくれていた。ツバキの木が二本並んであって、S字を描いた一本に、二又になった幹の垂直に伸びていたとおもわれる方を伐った跡があった。どうして垂直な方を伐ったのだろうか。しかし、ありがたいことに、S字の幹を残しておいたおかげで、根本に椅子をおいて腰掛けるとその幹の曲がり具合がちょうどよい背もたれになった。

木陰と折りたたみ椅子とツバキの背もたれ

『北欧 木の家具と建築の知恵』の自由な造形

 すわって本を開いていると、文字を追う目の動きが次第にゆっくりになって、やがてとまっていた。本と目を閉じた。するとさっきまで読んでいたのではない一冊が浮かんできた。『北欧 木の家具と建築の知恵』で、立ち木のそのままの造形をいかしてつくられた椅子がいくつか紹介されていた。たとえば、二本の枝がついた針葉樹の丸太を半割にしたものを、二本の枝を脚にしてもう一本をさし加えて三本脚にしたベンチや、根曲りの曲線をそのまま背もたれにした椅子など。丸太の椅子というのもあった。半周ほど背丈くらいまで辺材をのこして背もたれにしてある。一例として、根がついたままの切り株の椅子があって、樹皮のおもてにはキノコが乾いていた。
 それぞれを思い出しながら、そのときには思い至らなかった座り心地を想像することができた。つまり、あまり座りよくはないが、作った愛着と使い続ける愛情と、それから座り方の工夫次第で、安らぐことのできる椅子だろう。

『北欧 木の家具と建築の知恵』。オシャレを示す記号になってしまっていない、北欧についてはめずらしい良書

 頭上高くに伸びたケヤキの大木は、広げた枝にまだ一葉もつけないまま、春の陽気のなかに遅寝している。周囲の落葉の木々にも芽吹きはじめたものや、まださみしい枝だけのもいた。下を見ても、すでに立派に葉を開いていまからは色を濃くしていこうとしている草もあれば、まだ小さな芽をだしたばかりのものもあって、それから、たぶん土のなかにはこれから芽をだそうとしているような準備の遅いやつもいるだろう。
 ときおり山から涼しい風が降りて、どこやらに咲いたモクレンの香りを運んできた。風はそのままモクレンの香りを連れて吹き抜けていったから、甘い香りは一瞬にして消えた。モクレンの強い香りが消えてはじめて足元の青くて苦い匂いに気づいた。花の開いたフキノトウだった。見渡すとそこここにぽつぽつと咲いていた。

春の木陰とゼンマイ

 そうして見回した視線はヒサカキの木陰になっている崖の斜面で首を伸ばしているゼンマイとぶつかった。はじめそれをゼンマイとはおもえなかった。わたしにとってゼンマイは伝説とはいかないまでも、ある場所にあることは知っているが、そのある場所をわたしは知らなくて、今のわたしには手の届かないところにしかないものだと思っていた。

崖の陰に伸びたゼンマイ

 そういえば2年前ここに来てはじめて見た山菜は、ということはつまりうまれて初めて見た山菜ということになるが、ゼンマイだった。たしか、来たてでなにもすることがない暇な体を集落にぶらつかせていたとき、いまでもお世話になっている集落のおばあさんが何かしているところに出くわして、慣れない方言に半ば以上聞き取れない会話のなかから、新聞紙の上の乾涸びたミミズみたいなのがゼンマイで、それを干していること、それからたびたび揉むことでやわらかくて美味しくなることなどをようやく聞き得たのだった。そのとき嗅いだ鼻の奥にまで届く独特の重たい匂いは鼻の膜粘膜か記憶のひだかにこびりついたらしくて、数日は消えなかった。
 話のはずみで、次のゼンマイ採りの同行を願い出たが、険しい崖っぷちだからとかなんとかで結局連れて行ってはくれなかった。出会って日も浅かったことだし、体のいい断り文句だったのだろうかとも思ったが、数度一緒に山菜採りに行った後でもゼンマイ採りには同行する機会が得られなかったからには、機会がなかったということでしかないのだろう。以来、ゼンマイ、それからワラビは憧憬の的だった。

ゼンマイの天日干し

 まさか裏庭にあるなんて思いもしなかった。しかも少なくない数の株があった。近づいて綿に包まれた艶のある長い茎の様子を確かめたときにはふしぎと手が汗ばんでいて、もしこれがゼンマイでなくても落ち込まなくてすむように、別に興味ないよといったそぶりで一度木陰の椅子にもどった。当然、この心理には無理があったから、すぐに家にはいって、山菜ガイドブックみたいな冊子を開いて、さっきのゼンマイみたいなのがゼンマイであることを確認した。
 おばあさんに電話でどうすればいいか聞いて、その言う通りに株ごとに二、三本を残して手折って綿をとり、ぐらぐらの湯で軽く茹でてから、網の上に広げて日に晒した。おばあさんが面倒だと言っていた手のひらで揉み混ぜるのを早くやりたくて、頻繁に様子を見たが一向に乾いていなかった。しばらくして忘れていたことに気づいて見てみると赤紫になっていた。揉んでみると、それでもまだ水気がたっぷりあって、折れてしまいそうだったので軽くでやめた。揉まれてゼンマイは皮が破れて水気が漏れた。あの重い酸味のある匂いが漂ってきて、揉み終えた手にも残った。

 数日の春の日和を味わってからかえりみて、そういえば北陸にもこんな陽気が続くことがあるものなのかと思った。

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