陽だまりと『時をたたせる為に』

二つの冬

「冬が来た」

 さいたまにいるころに読んで、なんとなしに気にかかっていたラフォルグの「冬が来た」という詩を、こっちで読みなおしたら、よくよくひびいた。

公園のベンチは濡れていて、もう腰掛けることが出来ない。
もう来年まで何もかもおしまいで、
ベンチは濡れているし、木の葉の色は変り、
角笛はもう吹けるだけ吹かれているのだ。……
英国海峡の方から吹き寄せられた雲が
私達の最後の日曜日を台なしにしてしまった。

 パリの神経質すぎた青年には、冬が来たことが、最後の日曜日が終わったことが、ベンチが濡れていることが、よほど気に障るらしい。しかし、やたらさみしそうにうたう様子をわたしにはすこし滑稽に思う。

ラフォルグの他にもさまざまな詩人の訳詩が収録されている『訳詩集 葡萄酒の色』と、ラフォルグの散文と、吉田健一による解説を含む『ラフォルグ抄』

縁側のひだまり

 さいたまにいたころのわたしには、冬は冬の楽しみがあった。澄んだ空を抜けて差す日が暖めた縁側は、他の季節の濡れていないベンチと同じくらいに心地よかった。埼玉県は日本で一番晴れの日が多い県ではなかっただろうか。すくなくとも、わたしが思い出すさいたまの冬はいつも晴れだ。
 晴れだといっても冬に外に出れば当然寒い。雪をしらない冬の空気は乾いていて、息をふかく吸うと喉深くまでを冷やした。乾いた風の寒さは痛みだった。乾燥した風に吹かれて、服から露出した顔や手は乾いて赤くなった。船の帆のように風をまっこうに受ける耳は、何度となく、強風によってとれてしまったかと錯覚した。感覚がなくなってしまったからだった。
 このような外の寒さを知っているから、なおさら縁側を心地よくおもうということもある。とくに庭木が揺れ、ガラス戸が揺れてやかましい音を立てるとき、隙間から抜けてきた冷たい一条の風を感じるときには。

 日が出てしばらくすると、ガラスを抜けて縁側に光が差して、床を暖める。親父は籐椅子に座って、ピーナッツを、割った殻のくずが床に落ちることを少しも気にせずにつまみながら、新聞を広げていた。庭の手前に夏みかんと金柑の木があって、よく鳥がついばみに来た。親父はお気に入りのメジロが来たときには楽しそうに眺め、ムクドリが来てやかましく騒ぎたてるとガラス戸を叩いて追い払った。
 わたしは本を数冊持って縁側に行き、座布団に座る。本を開いて読みかけて、いつも気が乗らずに閉じてしまう。親父もきっと新聞なんて読んでいやしなかっただろう。それで、何をするともなく過ごした。太陽の移動とともにガラス戸の枠木の影は移っていった。
 日が傾いて、窓の向こうの空が赤く染まるころには、縁側は昼までに溜め込んだ暖気を使い果たしていた。外から漏れてくる冷気で次第に冷えていく縁側もこれはこれで気持ちがいいもので、気づけば指先は冷たくなっている。外は濃紺に暗くなった。親父はいつも早めに切り上げて、ぬけぬけとこたつに入っていた。

冬の縁側のひだまりで大豆の選定をしていた。

時をたたせる為に

『甘酸っぱい味』

 ラフォルグの詩を好み、自ら訳した吉田健一も、縁側が好きなようで、文章のかなめに現れる。たとえば、まだ若いころ、新聞に連載していた『甘酸っぱい味』のうちの「住居」という文章の締めで縁側が顔を出す。ところでこの文章は金沢の旅館の感想にはじまっている。出来上がったばかりの部屋だったけれど、古い材を使って建ててあり、工法にも工夫があるため「新築の部屋に寝るのとは凡そ違った気持ちで一夜が過ごせた。」と喜んでいる。こんなところにも吉田健一の金沢好みの一端があるのだろうか。
 「この一晩の宿がここは自分の家ではないが、自分の家にいるのも同じなのだという考えにさせてくれた。
 ここに自分はいて、それでいいのだという気持ちになるのは、自分の家にいる時に限ったことではない。」と続けている。この、自分がここにいることに満足できる場所の別例として、縁側を持ち出して、話をまとめている。

 「その昔、縁側で日向ぼっこをすることも知らないと言って、友達に笑われたことがある。その頃は、自分がどこにいるのかも解らない位、仕事にあくせくしていたのではないかと思う。併しこれも、自分の家にいる気分になるのには、縁側で日向ぼっこするに限るという訳ではないので、窓に掛けたレエスのカアテンが古くなると、初めは白かったのが茶色に変色し、それを通して西日が差して来れば金色に光る。その窓に西日が差して来る時期にならなければならないが、それが好きで、その時期の午後も遅くなれば、なるべく窓と向き合った所に行って椅子に腰掛けることにしている。自分の家にいないのに、いるのと同じ気持ちというのは、こうなると、家にいるのに他所と同じ満足を感じるのに似て来る。どっちでも、自分のいるべき所にいることに変わりはないのである。」

『時をたたせる為に』

 自分がここにいることに満足している状態、という曖昧な、それでいてわたしには過不足ない表現とおもわれる状態について、吉田健一は晩年にも繰り返し書いている。『時を立たせる為に』というすてきな本の中に収録されている「生活」という文章にも、縁側とそしてそこにいることによって得られる満足とが語られている。
 生活とは、「生活を生活の手段と混同するということをしなければこれは自分が現にいる場所でそこでしていることに満足して時をたたせるというのがその本当の意味で、」云々と言って、だから「縁側に日が当たっていて煙草とマッチと灰皿があれば縁側が埃をかぶっていても生活は成立する。」と続けている。
 「自分が現にいる場所でそこでしていることに満足して時をたたせる」ためには、日の光の推移が見える場所にいくのが一番で、『時をたたせる為に』の「時間」の終わりでもすすめている。

 「我々にとって意味があるものの一つに時間がたつのを知るということがある。例えば障子に差す日の具合を見ていればそれが少しづつ移って行くのが解る。既に障子というものを知らないというのならば合成繊維のカアテンが掛かった窓でもそれが出来る。その暇さえもないというのならば十何階かの建物の事務所で机に向かって欠伸をしていても光線の加減でその加減が変わって行くことが解る筈であり、それさえも出来ない状態が狂騒、或いは痴呆である。なぜならば時間はどこででもいや応なしにたって行く。」

吉田健一著作集 第26巻『詩に就て 時をたたせる為に』

金沢の冬、あるいは、山の冬

 残念なことに今の家には冬の縁側というものはない。さいたまの家にあった意味では。縁側はあるが、曇り、降雪が常で、あるいはたまの晴れの日にも、縁側の向こうは雪囲いのプラの青い波板しかない。当然日向ぼっこなど望めない。そもそも縁側と部屋との間の障子は、屋根雪の重さで冬早々に建て付けが悪くなり、開ける気にすらならない。
 ラフォルグが「冬が来た」の最後の方で

併し毛糸の下着にゴムの上靴、薬局、夢
町の屋根の海に向かっている
露台の窓から引いたカアテン、
ランプの光、版画、紅茶、紅茶に合う菓子、
こういうものだけを愛していく訳にはいかないのだろうか。……

 と、すこしいやみっぽく並べているように、わたしもこれにならって、厚手の下着に混毛のももひき、湯たんぽ、窓の木枠の隙間から侵入して斜めに積もる細雪、ストーブ、ストーブの上で焼くもち、こういうものだけを愛していく訳にはいかないだろうか、とでも言っておけばいいのだろうか。 

 いや、縁側にひだまりがなくても、別の楽しみはある。たとえば朝からコタツにこもって、ぼうっと1日をすごすことにも。ここにも「自分が現にいる場所でそこでしていることに満足して時をたたせる」状態があって、おそらく山の集落の暗い冬に少しでも明かりをとりいれるための工夫でとりつけたらしい部屋の天井付近の細い採光窓から弱々しく差さしている光が、薄まったり、見え隠れしたりしながら、部屋の床を移動していくようすを眺めることはきもちのいいものだ。こたつに座ってその窓を見上げた先には、雑木の山があって、幹の先と葉を落とした枝だけがのぞいている。雪の日にはしんしんと降る雪の様子が見える。
 気密性の低い古い家は隙間だらけだ。部屋と部屋との間の板戸はわずかに斜に傾いていて、二つの板戸を合わせても、下が閉まっても上には隙間ができる。もちろん板戸と柱とのあいだにも隙間はあって、ありがたいことにそこらじゅうから新鮮で冷たい空気を部屋へ提供してくれている。窓側からつよい風が吹くと、カーテンの裾がゆれて、窓から床を這うように外の冷気が流れ込んでくる。
 雪が降りつもるときには、音もなく、むしろ晴れや曇りの日よりも静かな気がする。というのは、晴れや曇りの気温の高い日には、溶けた雪が屋根から流れ落ちる音がするから。しかし吹雪のときには雪やあられが窓と壁にぶつかり細かく響く。そして、ときどき、どこか近くの杉の枝葉の上に積もってあやうい均衡をたもっていた雪が崩れ落ちて重たい音をたてる。
 体がかたまってしまったときには、意味もなく外へ出て、新雪を踏んだり、素手でにぎったりした。そしてそれを庭先の木々の、雪を抱えてたわんだ枝葉に向かって投げつた。横からの一投をきっかけにして木の枝は素早く跳ね戻って、雪塊はその跳躍についていけず、そのまま落下した。
 それから家に入って、雪の冷たさに赤くかじかんだ手をストーブにあてたときに、ほんとうに温かみをあじわえているというかんじがする。

ハンノキ林

 縁側で日向ぼっこをしたり、障子やカアテンに差す日を眺めたり、時をたたせているとき、そこには無為とはあきらかに違う充実した空白な時間がある。
 そしてこれらの例に、ハンノキ林のもとに寝転んですごした思い出をくわえたい。縁側のひだまりにすごした時間とそれからこのハンノキ林に寝転んですごした時間とは、さいたまにいたころのことを思いだすときにはいつも浮かんでくる、最も懐かしい思い出だ。

さいたまの山

 さいたま市にはわずかな台地があるばかりで山はない。しかし山と呼ばれるものはある。田んぼに囲まれて残った雑木林がそれで、山を知る人びとが高く盛り上がった土を見て山と言うように、わたしたちには高く茂った木々は平地から盛り上がっているように見えて、それで山と言ったのかもしれない。あるいは森林と山とを混同して、林を山と言っていたのだろうか。
 わたしたちにとって一番身近な山は富士山だった。秩父の山々でさえ遠く、低い山の連なりは四季の移ろいに関わらず灰色のシルエットでしかない。それで、冬の晴れた日にだけ澄んだ空気の向こうにはっきりと姿を現わす富士山の方がわたしたちにとって山の象徴だった。さいたま市の西の端に流れる荒川を越えた先には、美しい富士山の景勝にあやかったようにして、富士見市とふじみ野市というややこしい名前の市が並んでさえいる。

河川敷の田んぼと雑木林

 荒川は名前の通り、くりかえし氾濫を起こすやっかいな川で、そのために町との間に高い堤防が築かれている。堤防と川との間には河川敷が広がっていて、堤防に近い側にわたしたちの田んぼがあった。川に近いあたりには田んぼに囲まれて点々と雑木林や、かや場が残っていた。雑木林は肥料や燃料を得るために使用していた名残ともいうし、戦後食糧難の際に、田んぼを持たない町のひとが遠くから来て開墾したが、食糧難が解決された後では用済みとなった田んぼを放置した結果、林にかえったともいわれた。
 クヌギが多かったが、ハンノキが群生している林もあった。もともと田んぼだった土地や、田んぼのすぐ脇の湿地だった。ハンノキは湿っ気のある土地に好んで育つ木で、マメ科と同じように根っこで窒素固定菌と協力するため痩せた土地でもすぐに育った。いそいで育つ性質のせいか、吹きっさらしにされるせいか、下枝がすくなく、幹だけがすーっと真っ直ぐに高く伸びていて、梢あたりにも枝のすくない貧相な姿をしていた。この辺では、湿地にも早く育ち、幹が素直で細くて丈夫なため、田んぼにもならない湿地や田んぼの畦に植えて、ハサ掛けの骨組みに用いていたと聞いた。あぜくろ豆といって、畦に大豆を植えたりしたこともあるし、マメやハンノキの窒素固定は田んぼの肥沃化にもすこしは寄与していたのだろうか。

ハンノキ林の周辺

 水気が多いためか、ハンノキ林には春先に芽吹く雑草のなかでも柔らかいものが茂った。夏になると雑草は私の背丈ほどに伸びて、硬くもなり、人の侵入を拒んだが、田植えころまでは、緑の薄い下草の絨毯を敷いて歓迎してくれた。
 わたしがつくっていた2枚の水田のちかくにお気に入りのハンノキ林があった。わたしの田んぼから一段低くなった一画の4、5枚の広い田んぼは水捌けが悪く、雨が降れば自然と水が溜まった。冬には、田んぼの角に自然と水が溜まり、暁に凍った表面が、昼すぎのつよい日差しを跳ね返した。ハンノキ林はその湿田の脇にあって、さらに一段低かった。田んぼと反対側の隣はまた竹林に荒らされた雑木林になっていた。
 小さいころのわたしにとってそこは異界で、良心の欠けた人びとが捨てていった家電やら缶やらが転がっていた。混沌の林のなかで樹冠の間にわずかに開いた隙間からのぞく青空の下に出て光を浴びようと、競って枝葉を伸ばし歪に育った木や、太いツタで幹を締め付けられ梢を地面に引っ張られている木やらの間に、古い時代の家電や昭和のデザインをしたコーヒー缶が埋もれている様子は、高度文明が失われ退廃した世界といった幼稚な空想を抱かせた。

ハンノキ林に寝転ぶ

 ありがたいことにハンノキ林には竹が侵食してくることはなく、いつも平穏に風が流れていた。朝露が消えたころを見計らってハンノキ林に行き、春草の絨毯の上で寝転ぶと、すぐに時間はすぎていった。
 ある日、ボルヘスの『ブロディーの報告書』を持っていったが、読みかけてはまぶたが落ちて、しばらくして起きて、また読みかけてはまぶたが落ちて、と繰り返して過ごした記憶がある。おかげで、その本の中身についてはほとんど記憶していない。本の表紙の角には黄色い染みがついているが、これがはたしてこのときに草のつゆがついたものかも覚えていない。睡眠不足ではなかったのにどうしてあんなに寝てしまったのか不思議だが、とにかくあの日の午睡は今までの短い人生の中でも最良の時間だった。他の日にはなにを持っていって、読んだり読まなかったりしたのかも、忘れている。

 お気に入りの林にはまだ木々が茂ってはおらず、木の一本一本も細く、ただ背だけひょろりと伸びていた。広葉樹のくせに幹が分岐せずに一本立ちしていて、枝は梢あたりにだけしかなかった。それも細くて短く、どうも太陽の光を浴びることに欲はないらしかった。そのために仰向けで寝るわたしの顔に木漏れ日が降りそそいでくるという迷惑をこうむった。わたしはその眩しさを差し引いてもハンノキ林のしたで仰向けに寝転ぶのが好きだった。

ハンノキ林に寝転んだ景色

ふたたび、時をたたせる為に

 ハンノキ林に寝転ぶことにも、吉田健一のいうところの「自分が現にいる場所でそこでしていることに満足して時をたたせる」状態があって、それがわたしを憩わせた。残念ながら、こっちに来てからこれまでに、外で、このような時間を過ごせる場所を見つけられていない。金沢の自然がそうさせてくれないというのではまったくなくて、わたしがその場所を作り出すことができていないということだ。問題はこちらの心理にある。たとえば畑に向かうにしても、近くの山に入るにしても、目的はその場所へ行くことそのものにはなく、他にあって、たとえばのら仕事や山菜摘み、木々の調査だったりで、あくせくしていると、時をたたせるということにはならなくて、気がつけば時がたっているということになる。

 こんなことではいけないから、どうか来春には、山で時をたたせる為の適所を見つけたい。じつは目をかけている場所があるにはあるのだが。

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