被告サルと『動物裁判』

 いつだったか、わたしがサルの駆除に取り組んでいる話をしている際、「サルとの争いは、平和の可能性のない争いであることが、なにより苦しい。」と言うと、みんなはわたしがかるい冗談を言ったかのように湧いて笑った。いつ思い出しても不思議でならない。どうしてわたしの真剣はかれらのなかで冗談に変化してしまったのか。

自分でも意味のよくわからないことば

 いつだったか、意味はよく理解できないままに、ふと頭に浮かんで、記しておいたことばがある。

 害獣駆除について獣に人並みの同情を寄せるひとびとは、害獣を人間の法に照らして裁きを下して、罰するという心理で獣害駆除を行うひとびとと同程度に野蛮ではないか、みたいな意味だった。野蛮ということばの意味がいまのわたしには不明瞭だ。

 少なくとも一方では、人による殺害の被害者として獣を擬人視し、他方では人に被害を及ぼす加害者として獣を擬人視している。いずれも獣を獣として認めずに、人間の一員と仮にみなして問題を片付けようとしている点においては同じである。
 獣害の問題はそこにはなくて、おそらく、獣をひとではない他者として正確に認識し、その上で彼らとどのような関係を築くかにあるように思う。

 人と人との間にむすばれた法律に照らして動物を裁いて罰しようとするひとのくだらなさは言うまでもないけれど、動物を極端に人間に近づけて考えることに対してわたしが抱いている違和感はなかなか捉えがたい。わたしは博愛精神にかけているのだろうか。
 裸でかわいそうだからと野良犬に服を着せてやろうとして噛まれて怒ることが博愛精神なのだろうか。そうであればわたしには博愛精神はない。もちろん愛犬家は、裸で外を歩かせるのはしのびないとして飼い犬のために服を着せているわけではないだろうけれども。
 ここには、アニミズムと擬人化の誤った混同がある。空腹のイヌに飯をやることと、そいつが裸だから服を着せてやることは、同じ判断には基づかない。

 親を失った子犬が慟哭するさまを見て、ああ彼らにも人並みに親を肉親をおもう情があるのだ、云々といった考えをいだくことも不思議だ。わたしにはそれは当然のことであり、彼らもわたしたちと同じ感情をもっている云々という話ではなく、むしろ、わたしたちの心理に、彼らのような素直な感情がまだ残っているといった方がすっきりとする。彼らの肉親への愛情ような原始的な感情が複雑に発展して、わたしたち人間の心理とかいう悩ましいものができあがったのだろうから。

「オイレンシュピーゲルと驢馬」

 阿部謹也の雑文集『中世の星の下で』の中で興味深い一文にであった。

文筆犬ロルフの『追想録と手紙』

 「オイレンシュピーゲルと驢馬」だった。中世ドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲル』の内の、ロバに言葉を理解させる一話を紹介した後で、洋の東西で人間と動物との関わり方に相違があるために、筆者にはこの話の核というか面白みというかがつかめないことをまくらにして文章は始まっていた。そして話は1920年に公刊された一冊の奇妙な本に移る。メーケル夫人によって出版された『追想録と手紙』というその本の奇妙な点は、ロルフという名の犬によって書かれた点にあった。並の本に退屈した読書界に一石を投じようとして犬が書いた体裁をとった小説や、風刺、パロディではなく、真面目にロルフという犬が書いた本である。すくなくともロルフの飼い主である夫人は自分の飼っている類ない名犬ロルフが人語を理解し、みずからの意思で『追想録と手紙』を記したことを疑っていない。その後、動物心理学者を複数巻き込んで、ロルフという犬が書いた、おりからはじまりつつあった第一次世界大戦に対する感想をも含む、気味の悪い手記の真偽について真剣に検討された。

愛情と同化

 わたしの興味は、ひとびとが動物も人語を解するとまじめに信じた、信じなければならなかった理由にあった。
 手記は偽物であるという立場をとる学者の一人は、夫人にロルフを利用した売名意識がなかったことや、ロルフの手記を信じる周囲の人々がけして茶化しているわけではなく真面目であることを認めた上で、このように動物が人語を理解できることを信じた理由について、至極単純で真っ当な結論に達している。

 「理由はただひとつ、あまりに深く、そのために病的になった動物に対する『愛情』だという。当時動物には霊があるか否かという議論があり、動物を『愛する』人びとは動物にも霊があるという説を頑強に支持していた。このような『愛情』がメーケル夫人らを動かしていたというのである。この愛はいうならば一視同仁の愛であり、一見普遍的な性格をもつが故に西欧では承認され易い性格をもっており、そこが私たち日本人には一番理解しにくいところなのである。」

 「オイレンシュピーゲルと驢馬」という文章が書かれた1982年に比べて、より西欧化したであろう現在にいきる日本人の心理にとっては、自分が愛する動物が人語を使用できるという考えについて、理解できないどころか、むしろ当然のこととして信じるほうが一般的なのだろうか。すくなくともわたしには理解できない。生まれる前に書かれた古い考えをいまだに抱いているわたしは固陋ということなのかもしれない。

 阿部謹也のこれに続ける文章もおもしろい。
 「犬には犬同士で了解しうるコミュニケーションの手段があり、それで十分ではないか、人間が介入し、人間に近づけようなどとすることは犬にて大変迷惑なことではないのか、ということが彼らには理解しにくいのであり、そのような考え方は最近のイルカ捕獲をめぐるアメリカ人の反応にもみられる。イルカが牛や羊よりも人類に近い頭脳をもっていると考えるがゆえの『愛情』なのである。こうした姿勢は人間と動物を厳然と区別し、人間のみが世界の主人だという思想とつながっており、西欧文化とキリスト教の底に流れている基底音ともなっている。」

 昔の人が、梅の上でウグイスが鳴いているのも、水中でカエルが鳴いているのも歌だねといっても、それを人語で詠んだとまではいっていない。それでも、詩人たちは牡鹿の求愛のいななきに切なさを感じとれるほど豊かな感受性を持っていたし、自然に向けるその眼差しは、西欧的な愛情に比肩してあたたかく優しいようにおもう。

 散々いわれれているキリスト教の根底にひそむ人間中心主義への批判はどうでもいいが、わたしには、「この基底音は決して古代から連綿としてあったわけではなく、中世以降に生まれたものなのである。十一世紀に人間と人間の関係が変化すると同時に人間と動物との関係も変化してゆかざるをえなかったからである。」といっていることが気になる。しかし、残念なことに、この人間と動物との間の西欧の特殊な関係についての考察は別の機会にゆずるとして、はぐらかされてしまっている。

池上俊一『動物裁判』と阿部謹也『中世の星の下で』

『動物裁判』

  もう一冊おもしろく読んだ本がある。中世史家、池上俊一の『動物裁判』は、十二世紀から十八世紀まで西欧各国で頻繁に実際に行われた動物裁判という現象から、その心理的背景にある、中世西欧に生じた変化、つまり「オイレンシュピーゲルと驢馬」ではほのめかさえれただけだった、人間と動物との関係の変化について探っている。

ブタの犯罪と裁判

 はじめに1456年の年の瀬にブルゴーニュ地方のサヴィニー村でブタが起こした犯罪と裁判について詳細に記されている。

 「ジャンを襲ったのは、巨大な母ブタであった。母ブタは残忍にも、ジャンを突きとばすのみか、狂ったようにいきりたって、彼を食い殺してしまったのである。大気をつんざくような絶叫をききつけて、ブタ飼いのジャン・バイイと、近くで仕事をしていた農民数人がかけつけたが、かれらが発見したのは、みるも無残な姿で横たわる子供の骸と、口辺に肉をくっつけて荒い息づかいをしている母ブタ、そしてそのまわりをまっ赤な血を体中に浴びながら、チョコチョコ走りまわっている六匹の仔ブタであった。呼ばれて村の若者たちもかけつけ、母ブタと仔ブタたちは『現行犯』で逮捕された。」

 当時のブタはまだ十分に家畜化されておらず、獰猛な牙の生えた黒ブタであり、特に繁殖期や屠殺期には野生の凶暴さをあらわにすることがあった。
 裁判は翌年開かれ、検察と弁護の活発な応酬があり、主犯の母ブタの有罪は動かぬものとして、特に6匹の仔ブタの共犯性について議論が紛糾した。そして最終的に、ブルゴーニュ地方の慣例と慣習法にのっとって「ジャン・マルタン殺しの母ブタは、サヴィニーの貴婦人の裁判所に没収され、裁判所内にある木に後ろ足で吊るされること」という判決が下された。「一方、六匹の仔ブタにかんしては、たしかに血だらけになって発見されたけれども、殺人に積極的に関与し、子供を食べたという証拠はないものとして、無罪となった。」

 悲惨な事件と、それを不謹慎にも冷やかしているかのような戯れの裁判の行方を、大衆が真摯に注視していた時代とはなんと奇妙な時代だろうか。特に仔ブタの罪の有無について、疑わしきは罰せずとして無罪とする姿勢には理知を感じる。そして、ここから、この裁判が、大切な子を失った民衆たちのやり場のない怒りの矛先をブタに向けることを正当化ための、裁判の体裁をしたこじつけ的な手順ではなく、動物を被告とした、まさしく大真面目な裁判であったことがわかる。

破門された動物たち

 被告動物はブタを筆頭に、ウシやウマ、イヌ、ネコ、ヤギ、ヒツジなど多くの家畜となった。
 動物のみならず、植物さえも法の掟には従属しなければならなかった。アルザスの森は、そこで殺人を犯した犯人が見つけだされることがなかった際に、犯人を匿った共犯罪として死刑宣告された。殺人者を秘匿した主な責任は大樹林に帰せられ、すべて伐り倒された。森には藪と灌木しかのこらなかった、という。

 教会裁判所では、教会、修道院、墓で犯された犯罪や、瀆聖行為、異端、魔術などの信仰に反する罪などの特定の刑事事件を扱い、そこではネズミ、モグラ、ヘビなどの小動物や、バッタ、ハチ、ハエ、アリなどの虫までが裁判にかけられた。彼らは時に悪の使い魔と宣告され、祈祷や祓魔の儀式が執り行われ、最悪の場合には破門されたという。とはいえ魂の救済を望まない彼ら自身にとってはなんの痛手にもならなかっただろうけれど。
 昆虫や齧歯類による作物の甚大な食害に苦しんだ農民たちは、人力で駆除するにはあまりに多量に発生したそれらに対して無力であったために、神にすがることしかできなかったのだろう。実朝が洪水の折に「八大龍王雨やめやまへ」と願うことしかできなかったようにか。
 司祭は当然それを無視することができず、彼らが人に対するにはおそらく最も効力を持っていたであろう脅し文句の破門宣告を切り札にして、害獣、害虫との交渉の席についた。それが被告動物にたいする教会裁判所だった。
 失礼ながら、中世聖職者お得意のスコラ学的詭弁で装飾して動物に対して一方的に断罪を下だすための形式的なものでしかないだろうとおもっていたが、邪推だった。

 「裁判にかけられる昆虫や動物は、はじめからなんらの権利もみとめられず、有罪をあらかじめきめられていた、というわけではなく、弁護士は、被告の各種の権利の主張に躍起になり、討議の末、その保有権・生存権・その他がみとめられることはすくなくなかった。」

処刑台にのぼりひとになったブタ

 1386年、ノルマンディー地方のファレーズで1匹の雄ブタがゆりかごのの中の嬰児に襲い掛かり顔の一部と片腕を噛みちぎった事件が起こった。嬰児は深傷がもとで亡くなった。雄ブタは裁判により死刑宣告され、後ろ足で処刑台に吊り上げられて息絶えた。奇妙なことに、ブタは人間の仮装をさせられたあとで死刑にされた。

 「ブタの鼻面は切りおとされて、その鮮血あふれる生傷の上に人面を装着され、同様に腕を切りおとし、その後、胴体に上着、前足に白手袋、そして後足には半ズボンがはかせられた。このような格好をさせられたあと、ブタは綱で絞首台に引きあげられたのである。」

 このグロテスクで悪趣味な刑罰は、もちろん悪ふざけからほどこされた演出ではない。当時のひとびとの心理が真摯にそれを望んだ結果である。

 「このブタの裁判を要求し、処刑をまち望んでいた民衆のあいだに、ブタに人間と同じ十全な責任要求をしようという気運がグッとひろまっており、裁判官は、そうした民意を汲みあげて、かような処刑時の工夫を案出したのではあるまいか、」と解釈している。わたしもそうおもう。その上でさらに池上俊一は、ではなぜ動物に人間と同等の責任を要求するという発想が自然に生まれたのであろうか、と問いを続けている。

人間と自然の関係の変化

 『動物裁判』の後半部分を割いて、この動物裁判という歴史的現象がなぜ西欧の中世でのみで発生したかという問いを中心にして、中世西欧における人間と自然との関係の変化ということの具体的な内容について、さまざまな角度から検討している。特に、人間の自然に対する感受性の変化というものがわたしの興味をそそった。

 「動物裁判は、動物に人間の法を適用する。これを平気で実践しみまもることのできる感受性は、まさしく右にみてきたような、その時代固有の感受性以外のものではありえないであろう。それ以前の、動物や自然の霊性を真剣に畏怖していた時代には、それはだれにも受け入れられないだろう。また、それ以降の、風景を人間社会の理論から解きはなち、風景をそれにむかいあう個人が風景のためにのみ愛好・描写する時代、そして科学的客観性で自然をみて解釈しつくすという時代にもそれは存続しえないのである。」

 つまり、動物裁判という現状の根底には、自然の人間への同化がある。畏怖と恐怖の対象であった初期中世時代には、自然は異界だった。近代に生じた科学的視座から眺めたときには、自然は人間とは無関係に存在する、外にある客観的対象だった。この二つの時代に挟まれた西欧中世という時代でのみ、自然は人間世界の一部であった。それゆえに自然も人間同様、人間の定めた法律に従うべきだった。

 この人間による自然への同一視という考えが20世紀の人間までいきづいていたときに、ひとが動物に対して言語能力を要求することに不思議はない。要求に応えたのはロルフという1匹の犬だった。

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