クロモジの楊枝

 山の下草刈りをしているとき、腰の後ろでうなる仮払機のエンジンの排気の匂いや、細切れになって飛んでくる若葉の青く苦い匂いにまじって、ときどき爽やかな香りがただよってくることがある。夏に炎天とエンジンの排熱とで焼けつくような日には、涼しい一条の風が吹き抜けたようにさえ感じる。雑草雑木ともども刈られたクロモジがはなった芳香だった。変哲もない灌木で、雑草雑木を一掃するわたしの眼中にはない。仮払機で薙ぎはらい、前進するわたしの足が踏みしだいたときに、ようやくクロモジは自分を主張する。しかしわたしにはまだまだ先がある。そうして作業を終わったころには、疲れてクロモジもここちよい香りのことも忘れてしまっている。

『山びとの記』

 つらつらと『山びとの記』を読んでいて、クロモジと再会した。わたしがなにがしかと本当にであうのはいつでも本の中でなのだ。

宇江敏勝『山びとの記』中公新書


 本は刊行時、よく売れたようで、版を重ねているし、古本屋でしばしば見かけていたものだった。たしかに面白かった。かつて山びとの主業だった炭焼きから、その衰退、換わって盛んになっていく造林へと至る戦後の林業の変遷を、その変化に振り回された一林内労働者によって記されている。貴重な記録であり、立派な読み物でもあった。
 炭焼き師の子として生まれた筆者は炭焼きに見切りをつけ、果無の山での長期造林作業に従事する。6年を費やして256ヘクタールもの面積に植栽を完了させたとき、山主が変わった。時は土地ブームで、山地でさえ投機の対象であり、転売のたびに価格は倍化していった。地元の振興会と森林組合は土地を私鉄に売却した。私鉄は転売するつもりで、長期保持する気もなかったため造林事業を中断させた、木を育てるための下草刈りなどの保育作業もしないままに。それにより筆者は職を失った。
 「このとき慰労金の名目で一人当り一万円をもらった。全員で二十数万円、それは一緒に退職した補助監督員Sさん一人の解雇手当てとほぼ同じであった。ちなみに商談にかかわったブローカー氏へは、手数料として百数十万円が支払われている。私の当時の稼ぎのおよそ一年数ヶ月分である。これらの金額は、現場の労働者に対する世間の評価と、われわれの無力さを端的にあらわしているといえるだろう。
 果無を買った私鉄会社は、それから一年もたたないあいだに、こんどは南と北を分割して転売した。確認された情報ではないが、それによって倍する利益を稼いだと聞いた。」

クロモジ切りという雑業

 林業史のさみしい一挿話は読み捨てにできない重みがある。しかし、わたしの注視は職を失った筆者がふたたび造林事業に関わるまでの間暇におこなった雑業についてであった。
 「だが失業保健だけでは小遣いが不自由なので、おぎないにときどき内職的な稼ぎをした。それはクロモジ切りである。クロモジというのは杉林の下などに生える肌の青い灌木で、香りがよいところから、和菓子の楊枝の材料として使われる。里には仲買人がいて、束ねて持ってゆくと、目方を計量して金をくれた。」
 和菓子などという高級な文化をしらないわたしはおそらくクロモジの楊枝で菓子を口に運んだことがないが、なぎ伏せた雑草のなかから立ちのぼる香りは覚えていて、あの香りがついた楊枝で菓子を食うのは、きっと楽しいことだろうと想像はついた。

『大和本草』先生のお話

 『大和本草』には、クロモジについて「香気あり。故に是を用て牙杖とす。皮をつけ用ゆ。又ホヤウジと名づく。」とある。牙杖に<ヤウジ>と振ってある。これがどうして楊枝という漢字にかわったか不思議な話である。ホヨウジは穂楊枝で、昔の歯ブラシのようなもののようだ。続けて「其枝を籬とす。雅致を助く。」ともある。たしかに通るたびに香気ただようまがきは風雅だ。

つくってみる

 下草刈りのころにはときどきであっていたのに、いざ探してみるとなかなか見つけられない。とくに変わったところのない灌木で、唯一の特徴といえる細くのびた枝の青みは秋の深まりとともに暗く沈んでいったのか、落葉後の雑木林のさびしい風景に溶け込んでいた。クロモジの姿ににた赤茶色の乾いた感じのする灌木があった。クロモジとの見分けがつかないから、枝を手折って鼻に近づけて判別し、何度もその無味乾燥な木枝から薫香を嗅ぎつけようと努めて無駄をくった。ようやく本当のクロモジが3、4本の細い幹を伸ばしている一むらを見つけた。親指ほどの太さのものを一本採った。
 クロモジを10センチほどに切って、半割、四つ割にして、さらに半分に割った。香りが強いのは皮と木部の間らしいから、扇状になった材の中心を削いだ。それからなんとなく削っていき、楊枝の形にした。小刀のような形のものもつくった。難しい作業ではないが、しかし、出来上がったものの造形が美しくなってくれない。
 美しいものに整えようと努めると、余計に削って、かえって形が歪んでいった。暗い皮の下の緑とその下の黄色が綺麗で、模様を刻もうとして皮を薄く削ると、下手な傷にしかならなかった。いまから削る一本を丁寧に仕上げようと思う初志は、あまり美しい形には至らないだろうという予感によって砕かれて、その挫折のために予感は常に的中して、気づくといびつな楊枝の山ができあがっていた。完成品の山からよりも、細かく散らかる削り屑からよりも、わたしの両手からつよく芳香が漂ってきた。柑橘の厚い皮を剥いたあとで手に残る幸福感があった。

クロモジの楊枝。小刀のような形もつくった。

 それでも、自家用なら十分な出来だった。素人づくりの楊枝でも菓子くらいの柔らかなものは十分に切れて、口へ運んだときにただよう香りもいいものだった。

そして、カンジキ

 昨年狩猟に同行させてもらった方が履いていたカンジキは木製だった。その方に懐古趣味はないはずだったから、木製カンジキになにかしらの実利があるのだろうと思った。杉林の下を歩いているときに、踏んづけた弾みで雪に埋もれていた木が跳ね上がって、雪の上に梢を出した。クロモジだった。それでゆくりなくカンジキがクロモジでつくられていることを聞いた。そして、カンジキ職人のことをも。いずれぜひ会いたい。

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