大土町訪問と『日本の野菜』

 加賀の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている東谷地区の一つ、大土町を訪ねました。

右へ行けば県民の森、左へ行けば大土町の分岐点。

 大土町へと続く道は鬱蒼として木々は日を遮り、晴れの昼間にふさわしからぬ薄暗さでした。左手に流れる川の水面が日差しを砕いて投げ返す光の粒だけが眩しいです。川面の脇をなだらかに蛇行する道はやがて上り道になり、しだいに急な曲線をふやして高度を高めていきました。すでに川は姿を消していて、崖下からせせらぎだけが聞こえていました。
 ふいに上からまぶしさが襲いかかって、森を抜けたことに気づきました。大土町でした。

大土町俯瞰図。

大土町の民家

 大土町を含む東谷地区の保存対象は美しい赤瓦と囲炉裏の煙出しが特徴の民家です。瓦にあわせて朱に染めた柱も美しければ、雪除け雨よけのための杉皮も落ち着いた風格を民家にもたらしていました。わけても、この土地の土がたまたまそういう色だったにすぎないだろう、僅かに白みがかった薄黄色の土壁と朱色の瓦と柱との上品な調和は歴史的云々を抜きにして、造形の美しさによって保存するに足ると思わせる美しさでした。きっと土壁が白漆喰で仕上げてあっても、あるいは、もう少し茶色い土色であっても、この美しさはなかったろうとおもわせる、しっくりきている薄黄色の土壁と赤瓦でした。
 不思議なことには、家に土台がなく、あるいはわずかな高さで、軒下がありません。湿気に困りはしないかと思いましたが、山からの吹き下ろしが湿気を掃き捨てて、案外と乾いているのでしょうか。

大土町の民家のひとつ。

 大土町には現在10軒ほどの人家が残っていますが、住民は二枚田さんひとりです。
 金沢の山間の集落でしばしば耳にした話では、昭和38年の豪雪を契機として建て直しが行われたということですが、大土町では、昭和10年ころの失火によりふたつの蔵を残して集落は全焼したため、そのときに再建したといいます。現在残っている民家がそれだといいます。

集落の形成

 ここは山の中のどん詰まりで、川脇に形成されていったものではなく、山腹を拓いた集落でした。湧き水を頼りにした僅かな面積の棚田と山を拓いた棚畑、そして炭焼きが生業だったといいます。集落の上に水田が拓かれ、それより上にさらに傾斜の激しい山が続いています。山の集落に近いあたりがかつての棚畑でしたが、いまでは林業ばやりのころに植林した杉が一面を覆って、ところどころに組まれたまま崩れずにある石垣だけがかつての畑の名残をのこしていました。

ししぼ石。これから奥は傾斜が険しくなる。

 大土町は山腹に拓かれた地形で、集落の下の崖が崩壊した場合には集落もなだれることはもちろんのこと、集落の上も崖であり、これも崖崩れの恐れがあります。じじつ、山から崩落したものだといわれる大岩がそこここに埋まっています。そして、ここにししぼ石があります。

「かつての土砂災害により集落背後の山から転落した石と見られる。大土集落には、このような巨岩がいくつか見られ、急斜面の山を背負う集落の立地・環境をよく示している。
 また、耕作地を荒らすイノシシ(しし)をこの石のところまで追い払った(当時の方言で追うことを『ぼう』という)と伝わることから『ししぼ石』と呼ばれている。」

 右上の角は熊にかじられ破砕していました。この住民と獣との相剋が刻まれたこの板がすでに獣の示威行為の餌食となっていたのです。

 下から人家、田んぼ、そして急峻な山の中を畑に、という集落のすがたは、田畑を自然に対する要害として形成されたようでした。
 岩も獣も山からやってくる脅威で、それらを食い止めるために、山から人家を遠ざけていたようです。けわしい山の地下を流れる水脈がゆるやかな斜面に接して湧出して水田を潤すように、棚田は配置されています。

炭焼き

 かつての集落の生業のすがたを残そうと、二枚田さんは炭焼きを続けています。山の集落に近いあたり一面は杉造林地で、しばらくのぼったあたりに雑木林がありますが、しかし、「能登と違ってこっちではコナラやクヌギが少なくて」と言って二枚田さんは興味深い話を教えてくれました。

 「このへんでは山に炭に適した木がすくないから、なんでも山から伐りだしてとりあえず選別せずに焼いて、雑木の炭のなかからコナラの炭を選び出して、集めて売ったもんだよ。」

 なるほどたしかにコナラの炭は硬度と光沢があり、他の雑木のなかからでも容易に見分けられるでしょう。それでは混ざる雑木の割合が多くて、効率が悪いんじゃないか、しかし、コナラの少ない地域ではかえってこのほうが効率がいいのでしょうか。いずれにせよ、コナラの少ない地域というものもあるのか、とおどろいて、能登が炭焼きで有名だった理由の一つにコナラの豊富さがあるのだろうことにも気づきました。

 驚いたことはもう一つあります。これを見つけたよろこびでむしろわたしは小おどりしました。

古い窯。

 いまは使われていない古い窯でした。炭材を入れて、もう焼こうかというところで休止しているすがたも美しいですが、なによりわたしは石組みされた窯を初めて見たのです。「川床の石は焼くと割れるから、山や畑の石だけを使うんだ」という通り、いずれの石も川底を擦過して丸くなったものではなく、角のある石でした。このような窯は小さく、一度に20キロほどしか炭がとれないということでした。おそらくは、入り口上部の大きな要石がこれ以上大きな石は人力ではとうてい持ち上げられないために上限が定まって、そしてこの要石が窯全体の大きさを規定するために、いまあるこぶりな姿に落ち着いたのでしょう。
 窯のすがたにも特徴があって、一般の窯、というより今までわたしが見てきた窯という表現の方が穏当でしょうが、とにかく今までのものは、入り口は狭く、奥に広がりをもって、煙突手前で再び狭まった、尻ぶくれの壺型で、天井も中心よりやや向こうに頂点を持ったアーチを描いていましたが、この古い石組みの窯は、入り口より奥にゆくほどに下がりで急な勾配になっており、しかも、縦長というよりも横に広がりを持っているようでした。この窯ではどのような炎の広がりをして、どのように炭が焼けるのか、気になりました。

大土の太きゅうり

 大土で古くから栽培されているきゅうりがあります。加賀太きゅうりかと思いましたが、どうも違うらしい、というのは、加賀太は全身が綺麗な緑で、僅かに尻のあたりに白い縞が走っているばかりですが、大土の太きゅうりはその縞のかんじがどうも違っているようでした。といっても、わたしは加賀太きゅうりをじっくりと見たことも食べたこともないので、違いがわからないのですが。

二枚田昇さんと大土の太きゅうり

 種取り用に残して大きくしてあったうちの二つもらいました。二枚田さんのおすすめ通りに一つは大根のツマのように細長く刻み、醤油と酢に和え冷やして、もう一つは半月に切り浅く塩漬けして食べました。いずれも美味しくいただきました。

 この太きゅうりの親戚は、日本の各地、とくに東北にあるようで、青葉高の『日本の野菜』によれば、山形県酒田市の鵜渡河キュウリは、「果実が短い楕円形で先半分は白色に近く、疣は低く、褐色の刺は落ちやすい。収穫が遅れると果実は褐色になり、温室メロンに似た美しい編模様が生じる。これらの特性から見て本種はアーリールシアン系と呼ばれるシベリア胡瓜で、ピックル漬に適した品種である。」とあります。

青葉高『日本の野菜』

 そして加賀太きゅうりは、金沢の農家が東北からわけてもらったこの短太系きゅうりと在来種をかけあわせたものだといいます。ふたたび『日本の野菜』によると「果面に網目は現れないが、果肉は厚くて肉質がしまり、その特異な性質からみてシベリア系品種の血を引く在来種とみられる。」とあります。

 大土町の太きゅうりが東北系品種を仲立ちにシベリア系品種の血を引いているのは間違いないとして、はたして、東北の短太きゅうりと大土在来種のかけあわせの結果か、あるいは、加賀太きゅうりが大土に伝わり、山の環境によって加賀太きゅうりとは異なるものとなったのか、答えの出ない疑問ではありますが、気になるところです。

 こっちにくる前に、加賀太きゅうりの存在を知って、そして青葉高の『日本の野菜』を読んで、いつか太きゅうりの小さなものを摘んでピクルス漬けにして食ってみてえなあと、埼玉の実家に寝転びながら夢想していたことを思い出しました。細長いいわゆるきゅうりでは、漬けている途中で、組織が崩れてぐずぐずになってしまい、タンニンが組織分解を防ぐから、という理由で葡萄の葉やら柿の葉やらを混ぜて漬けても無益に終わりました。それで、いつか、緻密な肉質のきゅうりを積んで塩漬けにしてやりたいと願ったのでした。

 しかし、このいつかが今日になる日は果たしてやってくるのでしょうか。

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