柳田再訪と「生霊」

 柳田の炭焼き窯を再訪した。とくに用といった用もなく、ただ彼女の能登の実家に帰省した折、足を伸ばして挨拶に向かった次第で、炭焼きをテーマに卒業論文を用意している学生も同行した。

 新しいのを作ろうかと密かに準備を進めているという、窯場を見せてもらった。

制作途中の窯場

 今の窯場をみんなでつくる以前、といえば10数年前に、ひとりで段取りしてつくりはじめていた場所だという。よくもまあこれをひとりでと感心せずにはいられない。

タヌキとキツネのこと

 ところでこのあいだ訪問したときに、「いまの人は信じないだろうけどさ、」と前置きしてから、窯の番に遭遇した不思議な話をしはじめた。
「小さいころ、炭焼きの手伝いで、小屋の番をしていたときだった。ひるの15時くらいに、窯小屋のなかでまどろんでいると、山の上の方で大勢の子どもの声が賑やかに聞こえてきた。遠足でもしているようなはしゃいだ声だった。わしは気味がわるくて、背筋が粟だったが、外に出て、コラ!と一喝した。すると、やがて、静かになった。」

 ほうけたような表情を、わたしはしていたのだろうか、笹谷内さんに「あんたも信じとらんなあ」と言われた。わたしは、わたしのおもいを伝えられずにしまった。それは、かれの話の内容はたしかに信じられないが、それでも、かれがそれを信じていることは信じているということだった。つまり、わたしはタヌキがわたしを化かすなんてことは信じない。しかしタヌキが笹谷内さんを化かしたということ、あるいは笹谷内さんのタヌキに化かされた経験は信じる。

 わたしが「タヌキはなんで化かしたんでしょうか?」と尋ねると
「なんだろうなあ。キツネは人を攫うけどなあ。タヌキは、なんなんだろうな、いたずらかな。」
と答えにならぬ答えを返した。そうか、キツネは人を攫うために化かすのか。

 ところで話はまた飛んで、久生十蘭の小説について。先日「生霊」を読んでいるとこんな一文にぶつかった。

「生霊」収録の三冊。『墓地展望亭・ハムレット』だけ「生霊」の底本が違い、全集版に依っている。

「こんな晩に悪ふざけをするのは高山狐か飛騨狸にきまっている。どちらも愛想のいいやつばかりだが、なんといっても狸のほうはほめられたさがいっぱいでやるのだから、夢中になりすぎてつい尻尾を出してしまう。
 高山の町で自動車ポンプのサイレンの音を聞きおぼえてきて、月のいい晩に得意になって夜っぴてうウうウとやった。
 まるっきり真物そっくりで、それにはみんな感服したがこんな山奥へ自動車ポンプが来るわけはなし、すぐにお里が知れ、誰もかれもが腹をかかえて笑うばかりで間に受けないものだから、気がさしたとみえて三日ばかりでやめてしまった。
 そこへゆくと、狐のほうは、なんといっても役者が一枚上手で、角かくしをつけた花嫁姿になって加賀染の裲の褄をとってしゃなりしゃなりと出て来て踊ったりする。さす手もひく手も堂にいったもので、村方の女たちなどは足もとにもよれない。
 五人くらいで踊っていると、いつの間にか七人になり八人になり、どれが狐だか人間だか見わけがつかないままにいっしょくたになって踊っているうちに、しらじら明けになると、いつのまにかまたもとの五人になってしまう。
 だまって踊らせておけば機嫌よきしているが、仲間はずれのような真似をすると、草刈帰りの山道などで背負っている籠をいきなり後からひっくりかえしたりして、しかえしをすると聞いた。」

 「生霊」は、盆には新仏が家に戻ってくるという信仰ののこる地域を舞台にした小説で、それで、狐やら狸やらの変化は、古い風習、迷信めいた信仰が残っている小説空間への導入の役割を果たしていて、そして古い迷信において、タヌキは滑稽な剽軽もの、一方のキツネは油断ならない狡猾ものという印象に包まれているようだった。

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