サルの去来と「猿の皮」

サルの去来

 新保集落周辺にサルが現れはじめました。さいわい、ことしはたけのこご飯忙しやで、わたしは畑になにもつくっていないため侵入されるおそれはありませんが、集落の他の人たちはサルの姿を見つけると、躍起になってロケット花火に火をつけています。

 新保からもひとつ上の集落へと抜ける道の半ばに、主道を外れて半弧を描きながらすぐにまた主道にぶつかっている輪っかのような細い迂路があります。かつての主道で、太い直線道路ができてからはつかわれることなく、いまでは雑草や山ぶちの雑木が伸ばす枝にさえぎられて、車も人も通れなくなっています。新保の東にそびえる山並からくだってくる谷すじのひとつが、ちょうど迂路付近で道路を横断し、新保の脇を流れていき、集落下の田畑を潤しています。金沢、白山周辺に生息しているサルの群れのいくつかはしばしばその谷すじに沿って山からくだり、道路を渡って新保集落へ侵入します。谷は新保の人家のちょうど脇にあって、集落を通らずに下の田畑へ抜けるに最適の獣道です。谷間の崖は峻険でだれも整備できずに雑木が繁茂し、アーケードのように、サルにかっこうな日除けとなっています。

 その迂路に罠を一基しかけてあります。昨年1匹の小サルを捕獲しました。
 ことしはまだ空振りです。警戒心をとくために、罠の内外に餌を散らしてありますが、器用に罠の外や手前の餌だけ食べてあって、罠を機動させる仕掛けの餌だけが腐っていました。

 罠を恐れているサルがそれを仕掛けた人間のほうは一向に恐れず、ただ自分たちのために一生懸命餌を育てている愚かな存在のようにしか思っていない様子なのが不思議でなりません。
 わたしたちがサルに自分たちの近似を見出して、自然とサルを擬人化してその考えを想念するように、サルの方でもやはり人間に自分と近しいものを感じて、人間を擬猿化して把握しているのかもしれません。そうなればサルを威嚇するわたしたちを、サルのほうではたんに大きな同族が威嚇しているくらいにしか映っていないでしょう。縄張りを争うサルが威嚇しあいながら、一方が他方の瞳にうかぶ小さな畏怖を読み取ったとたんに勝負が決するように、わたしたち人間の恐怖をも擬猿的に読み取ったサルはすでに勝者であって、だからいつでも人間に示威を誇ります。

 内川ではサルの出現はここ5年来のことで、以前にはサルの被害を受けたためしがないとはよく聞く話でした。それで、サルによる獣害の原因はサルが出現したことだと考えられています。そして、サルの出現は山の荒廃や降雪量の減少などしかじかの遠因がかんがえられています。しかし、わたしはサルと人間との関係が変化したことに原因があるように思われてなりません。

 柳田國男に「猿の皮」(1926年)という講演の書き起こしがあります。そこに記されている人間とサルとの関係性は、今のそれからは想像できないような、棲み分けができていたように思えます。

「猿の皮」

 柳田國男の「猿の皮」は狂言の「靭猿」から筆を起こしています。ある大名が道中であった猿舞しに、皮を剥いで靭に張るから猿をくれと言って困らせる話です。靭というのは、弓の矢を入れておく器だといいます。そして、猿舞しが勘弁してもらうとしどろもどろする挙措が普段猿に舞を支持する動きに重なって、猿舞しの真摯な懇願で猿が滑稽に舞う様子が趣向のようです。
 そして、靭に張る猿の皮について、柳田は

 「全体猿の皮などというものは、美しいものでも何でも無い。毛の色も何色かときかれて、さあと言ってちょっと返事に困るほどの、わけの分からぬ色あいなのである。鼠色とも言えず、狐色ではなおさら無い。やっぱり強いて言えば猿色とでもして置く他は無い、ごくつまらぬ毛色である。何だって又斯んな皮を、大名などが珍重して旅行用の靱の皮に張りたがったのであろうか。それが私には不思議でならぬのである。」

 と疑問を呈しています。
 そして、柳田は黒部川の上流、釣鐘の温泉地への途次に寄った茶屋での話を続けています。座布団の上に敷いてくれた綺麗な毛皮があまりに綺麗だったためもとを尋ねると、店主が春に獲った猿の皮、若い猿の、至って栄養の好い猿の皮だったと言っています。

「長い柔かな絹糸のような細い毛であって、さきの方は少し茶のまじった鼠色の縞になって居るが、毛を分けて見ると中は銀水色とでもいうか、薄い青がかった何とも言えない佳い色艶をして居る。」

 そして冒頭の不思議に次のような理解を得ました。

 「私が黒部川の茶屋の猿の毛皮を見て始めて心づいたことは、いつも我々が何だかきたならしい毛だと思って居たのは、あれは当節の猿舞しなどの連れあるいて居る孤児の猿、少しく神経質の、よく言えば教養ある猿だけの話であった。山の中に行けば別に斯ういう立派な毛皮の、猿が居るのだということがわかった。」

『定本 柳田國男集 二十二巻』の「猿の皮」

その他、猿について老人が語ったことを記しています。

 「全体に猿を打つのは容易でないとこの老人は言った。十匹十五匹の猿の群が、ただ多勢できやアきやアと騒ぎまわって居るようでも、其中に一匹だけは、必ず何もせずに高い所に居て張番をして居る猿があって、ちっとでも危険の恐れがあるものが近よると、すぐに仲間に合図をする。そうすると、一同は忽ち影を潜めて、遁げてしまうから始末におえないとも老人は言って居た。」
 群からはぐれた猿について、個の力で生き延びた胆力のある「そういう猿は通例よく太り、色つやが好いから皮にしてもねうちが有る。それが独りで夢中になって何か食べて居る所を、狩人たちは狙うのだそうである。」

 以下、このはぐれ猿を人間における個人主義と捉え、猿の群と人間社会とを類似的に考えていきますが、それはいまは置いておいて、(付記)に記されている、求道者めいた生活で力強くなったはぐれ猿が人里へ来て、悠揚として蜜柑畠の中などに侵入した様子が気になります。
 こうしたはぐれサルの人里への侵入は、当時数十件発生して新聞にも掲載されているということから、きっと当時においてもはなれサルが集落を荒らすことはあっても、今のようにサルの群による農作物の甚大な被害はなかったようです。現在でも、まだ猿群の被害が出ていない内川以北でも、三谷や森本のあたりで、離れ猿によって畑を荒らされたという話を聞きました。

 猿は、文中の老人にとって狩猟対象であり、おそらく山里の住民も、里山に現れ畑を荒らそうと試みるサルには武器を向け、むしろぶってやる凛気を持って臨んだのではないでしょうか。
 この文章はかつての人間とサルとの関係性を示すひとつの断片であって、その全容を把握するには至りませんが、サルの皮の活用法をふくめてなかなか興味深いようにおもいます。

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