いも竹
竹の音
竹と木が違うように、林に響く音も森林のそれとは違っている。山では伐りたおした木の枝払いまでチェンソーで片付けてしまうが、竹林ではいまだに枝払いには斧が重宝で、たけのこ名産地である内川はじつは竹材の名産地でもあって、秋、竹の間伐時期を迎えると、竹山のふちの道脇のいたるところに丁寧に枝が払われた長尺の竹が山積みになっている風景が現れる。
斧といっても実際にはただの鉄筒なので、たけのこを掘るためのクワにはトンガと固有の名が与えられていながら、この鉄の棒はだれからも名付けられないままエダハライと用途でだけ呼ばれているか、あるいは振りおろすジェスチャーとともにアレと呼ばれるくらいのものだが、この鉄棒を一見斧らしく見せている刃のような鶏冠は、ほとんど使われることはなくて、その鶏冠を裏にしてただの鉄の棒として使われる。枝の生え際を乱暴に叩くと枝が幹から剥がれて、その荒々しい激突の音はそこらじゅうに立ち並ぶ竹の空洞にこだまして、竹林にはコーン、コーンと軽い音が響く。
この無名の発明家の手になる道具は、内川でたけのこ栽培が盛んだったころに流行ったものらしくて、あらゆる農具、林業用具がたどる運命、つまり山で落とされ、遭難届が出されるはずもないまま、忘却と腐敗のかなたへと至るあの運命を逃れられず、いま竹加工所には2丁が残るばかりとなっている。内川のほかのたけのこ農家のほとんどはおそらくこのエダハライをなくしてしまって、ただの丸い鉄の棒を力強く叩いて枝を払っている。それで済んでいるというところにこの道具に寂しさが漂っている所以がある。
鶏冠みたいな斧の刃のようなのは、師匠によれば、竹の梢の方の、幹が細くなっているところの枝がなかなか剥がれずらいときに刃を使うと枝払いがしやすいから付いている、とのことだが、わたしにはどうも別の、ずっと重要な理由がある気がしてならない。
Vipukirves
ヴェポキルヴェスVipukirvesという斧がある。こちらは特許取得済みのれっきとした発明品で、2005年にフィンランド人ヘイッキ・ケルネが発明したもので、別名レバーアックスという。『薪を焚く』という楽しい本によれば「これは純粋な薪割り斧だが、玉切り丸太がふたつに割れるように斧が切り込むのではなく、丸太の一番外側の部分をはがしていく。」という新基軸の斧なのである。この不思議な形の極めて非対称な斧は、丸太に垂直に振り下ろすと刃が丸太に食い込んだ瞬間に、刃の付け根が内側へ回転する。この大きな回転力によって刃先に外向きに生じるてこの力で、丸太の外側をかきとって、はがす。
わたしも買って遊んでみたので実物もあるのだが、横着者にとって書斎派は格好の隠れ蓑ということで、本を写す。
エダハライ
そしてちょうどわれわれの枝払いの鶏冠も、衝撃の際にてこの力、というよりも遠心力かもしれないが、とにかく枝をはがすような作用を働かせているような気が、わたしにはするのだ。つまり竹稈と枝との間に、鶏冠を上にしたエダハライを振りおろすとき、わずかに鶏冠を枝側へ傾けておくことで、衝撃の際にさらに鶏冠が枝側へ回転し鉄筒は枝側に自然に流れ、簡単に枝をはがしてくれる。
ヴェポキルヴェスをみたときには面白いものがあるもんだなあと感心したが、なんてことはなくて、身近なところにあったので、これも、すべて新奇なものは忘却に他ならない、ということだろうか。いや、いやしかし、エダハライはまだ忘れ去られてはいない。あやうい忘却の崖ぶちで、そのほかの様々な道具と一緒くたになっているが。
ところでどうしてこのような道具が必要なのかといえば、ほんとうの斧かあるいはナタで枝を落とそうとすると、切れすぎる刃は枝の生え際をうまく捉えていても幹まで割ってしまったり、あるいは枝を切断してしまって幹にわずかに枝が残ってしまうからであって、この鈍器による極めて野蛮に見える乱暴は案外と竹の幹にも枝にも優しいらしくて、どちらをも傷つけすぎることなく分離できる。
このようにして枝を払った幹の太いあたりは別所の竹屋でさまざまに加工するし、穂先のあたりはちょうどいい具合に切って竹ぼうきの柄にして、そして竹ぼうきの穂先にするためには、散らばった竹枝を集める。
竹枝はほうきの材料だけではなくて、この時期はえんどう豆の支柱として重宝されていて、どれだけ出荷しても週末ごとに売れ尽くしてしまって、週明けはいつも補充のためにせわしないという嬉しい盛況にまでなっている。左右に広がっていく竹の枝はちょうどえんどうが上へ上へ登っていくために伸ばすつるに格好の手がかりを与えて、そうしてえんどうは右へ左へ放縦に伸び広がっていく。
エダハライで落とした竹枝が一目でそれとわかるのは、やまどりのような尾がついているからで、それは幹から引っぺがしたときについてきた竹の薄い表面だが、ときにはその枝垂れ尾のついていない枝の束を見かけることもあって、それはエダハライで落としたのではなくて、剪定バサミによる鋭い断面を見せている。
このように剪定バサミによって枝を切り落とすのは、われわれのわざではない。いも竹を集める人らの作法である。
イモ竹
話は唐突に森本に移るのであるが、ここの特産に森本じねんじょ長芋があって、そのいもは長尺の竹を支柱としてつるを伸ばし枝葉を茂らせる。この竹をいも竹といって、わたしたちのように竹の幹から枝をさっぱり落とすのではなく、はんたいに、竹の幹に沿って登っていくイモが伸ばすつるのとっかかりとして、枝元を幹にわずかに残してやる。そのために、わざわざ丁寧にハサミで枝を切り落とすのだ。
竹の用途一つとってもせまい金沢でさえかくの如く多種多様で、どこまでも人間の世界はひろいと思う。わたしはまだなにも知らない。いも竹に繁茂するじねんじょ長芋の青々しい姿も、それが枯れたあとの美味しさも。
いも竹といも
夏前にようやくいも竹を見ることができた。黄色く枯れた竹稈の枝えだを頼りにつるを伸ばしたじねんじょで晴天の畑のもとに緑の塔が立ち並んでいた。地面の下のおいしさはまだ味わえていない。