積み石
気づけば終わっていたという具合でことしもたけのこの季節が過ぎていて、竹林を振りかえると、まだ柔らかな初夏の雑草が敷いた緑の絨毯のそこかしこに点々と穴が空いて土色をのぞかせている。ずいぶんと掘ったものだ。しかし傷口のようにひらかれた穴ぼこは次の春には周辺の地面の起伏にまぎれて見分けもつかないようになるのだろうか。あるいは、竹林の斜面を歩いていて時折、足元の小さな窪みにおもわずつまずくこともあって、これらいつかの掘り跡のようにいつまでも起伏を残しつづけて、今年の掘り跡にいつかの誰かがつまづくのだろうか。
竹林にはもっとずっと大きな穴もある。わたしの半身が埋まるような穴で、地盤の緩みによる陥没であるのか、古人の営みの名残なのかわからずにいる。イモでも貯蔵したのだろう、という誰かの推測を証し立てするためだけにも、実際に晩秋にイモを埋めてみればいいのだろうか。
積み石もある。
わたしの竹林でたけのこの周辺の土へトンガを振り下ろすと硬い手応えがかえってくるのはたいていはひねてかたくなった竹の根だが、ときおりは、こぶし大の石にぶつかることもあって、てこで上端を持ち上げてやると、石は寝返りをうってそのまま急斜面を跳ね転がって落ちていく。
平坦な竹林では掘り出した石を転がしてどこへやらうっちゃってしまうわけにはいかない、とはいえ、そのまま放っておいても、また掘るときに面倒になる、それでどことはなしに一箇所に集めていった結果なのだろう。
振り下ろしたトンガが硬い石にあたったときの思わぬ反動は強い衝撃で手のひらに痺れがのこる。疲労した心身にとって苛立たしい。しかしこのまま埋めておけば来年もまた不意打ちの電撃を喰らうことはわかりきっているから、しかたなしに掘り起こして、積み石の方に放り投げるのだろう。
内川に竹が植えられたけのこを掘り始めてから、多年にわたってすこしずつ、何代かにわたってわずかずつ積み上がってできてきた積み石は、繰り返されてきた春ののら仕事の風景を思わせて、内川の歴史そのものの姿をとっている。
伝統とか継承とかいう言葉が空虚に響いてわたしをときどき不快にさせるなかにあって、積み石に投げ込まれた新たな石がぶつかる響きは確かな重みを持っていて、伝統といかいう言葉よりもずっと正確に、ここに生きた人々の暮らしを伝えてくれている。