斧の音
「煙草」
森のなかにいるとときどき斧の音というものを思い出すことがある。斧が木をうつ響きは耳にしたことがなくて、だから、思い出すのは斧の音の姿である。
さいたまにいたころは、昔の広葉樹林がそのままにしてあってそれがいわゆる武蔵野らしい雑木林として広がっている公園に行くと、周囲を雑木に囲まれた沼にわずかな隙間から陽が差しているのを眺めては、斧の音というものを思った。沼のほとりに立っていると、かつてここで、遠くから響く斧の音を聞いたことがあるつもりでいるときさえあった。沼、というよりも沼に差す陽がどうして斧の音を思わせるのかといえば、三島由紀夫の「煙草」という短いのの中に美しい情景が出てくるからだった。
「私は学校を囲む起伏の多い広い森のなかを散歩するのを好んでいた。校舎は主に丘の頂きにあり、丘の斜面が皆森だった。幾本かの剣呑な辷りやすい径が羊腸と通うていた。沈鬱な沼地が森のなかに散在していた。それは恰も森の下水が青空に憧れてここに集まり、また暗い地下へと還ってゆくための憩いの場所のようで、重い灰色の水は少しも動かぬようにみえながら、ひっそりと輪廻しているのが窺われた。沼水のこのひそかな営みは時折私を魅した。朽ちた沼べりの木の根に腰をおろし、落葉が夢みるように徐々と漂うてゆく水の面を私はみつめた。森の奥で木を伐る音が丁々ときこえる。秋の落着きのない空がその時ふと湖のような美しい晴間を見せ、荘厳にかがやいている雲の縁から、数条の光りを落として来たが、丁々という斧の音はその光りの音かときこえた。不透明な沼水は光線のさし入る部分だけ金色に暈された透明さを得た。そのなかを美しい一枚の落葉がきらめきながら、動きの緩い沼の生き物のように、ゆっくりと翻りながら沈んでゆくのを見たときに、私はそれを見守っていた刹那々々を、理由もなく幸福に感じた。それはしじゅう自分が合一したく思っていて、多くの事が妨げずには措かなかったあの大きな静謐、私自身の前生から流れてくるらしい懐かしい静謐と、一つになりえたと感じる刹那だった。」
沼に差す光の音とはどんな響きなのだろうか。いまでもわたしはわからないままでいる。
斧、のこぎり、チェンソー
チェンソーの金属質の囀りはとうてい光の音ではありえなくて、原付バイクほどの大きなエンジンが耳元で唸るのは鼓膜を苛立たせる。中世史家ミシェル・パストゥローがいうには、中世西洋において木こりは森のcarnifex(死刑執行人、屠畜者)だった。斧が中世の死刑執行人の得物であるならば、とわたしはそこから連想してしまう、わたしの握っているこれは断頭台のようだ。自由、平和、平等のもとに断頭台が日々の勤勉に励んだように、革命が起こりさえすれば、チェンソーだって1日にどれだけでも木々を相手に断頭台と同じ役割を果たすことだろう。
しかし、断頭台は斧の血脈を継いでいる、と言ってみることがゆるされるならばチェンソーはのこぎりの遠い後裔であって、まずは斧とのこぎりと比較すべきだろう。パストゥローの「中世における木 ひとつの文化史」によれば、斧は武器であり道具でもあることから二重の象徴性をまとっていて、しかも道具としても伐倒用や木材加工用など、多用途に応じた豊富な種類があるが、
「用途の多様性にもかかわらず、道具としての斧はどこでも同じ音と火花を伴い、打ちつけ断ち切るものとして象徴的な力を保っている。斧は雷のように、光と火を吹きながら打ち下ろされるのだ。そのため斧は樹木を切り倒すものであっても、豊穣の評判が与えられる(十六世紀のアグリコラには、まだ豊かな斧ubertas securisという記述が見られる)。斧は生みだすために打ちつけられるのである。」
戦場で人々を打ち倒し、森の中で木々を絶つこの道具への限りない信頼に比べて、中世人ののこぎりに向ける眼差しは厳しい。
「のこぎりの評判は全く異なる。その仕組みは先史時代より知られていたのだが、職人によって仕事のために用いられるようになるには時間がかかった。中世の人間はのこぎりを使いはしたが嫌悪していた。悪魔的とされる道具だったからである。」
という始末で、その理由についても挙げている。
「のこぎりの何が非難されるのだろうか? その理由は多い。まずその脆さと、使い方が複雑で、斧なら一人で扱えるがのこぎりは二人必要になるという点だ。さらに価格が高いことと、手入れや修理が難しい点がある。また比較的音が静かなので、不法に木を切ることができる。最後にこれが最大の理由だが、のろく卑怯であり、素材に策を弄し、木に対して残酷で、樹木の繊維をめちゃくちゃにし、幹や切り株から新しい枝が生えるのを妨げる点だ。これは、のこぎりで切るとしばしば木質が腐ってしまうからである。」
なるほどのこぎりは斧に比べればあまりに脆く、扱いにくい。切るときにも力をかける方向が少しでもずれるといとも簡単に折れ曲がってしまう。刃がダメになったり、切れなくなれば、すぐに刃を替えれば済んでしまうから、いまのわたしたちには、のこぎりの手入れや修理の面倒くささは想像しがたいかもしれない。
そう古くない時代まで、のこぎりの刃はあらゆる刃物と同様に研いで使うものだった。のこぎりの場合は、そしてその遠い後裔であるチェンソーにおいても、ただしくは目立てと言うべきで、専門の職人もいて、親父はたしか、幼いころには目立て屋が近所を回って商売していたとか言ってなかっただろうか。あるいはあれは石臼の目立て師の話だったっけ。そばを挽く臼をどこからかもらってきて、しかし目が減っているもんだからなかなかうまく挽けないところから二人で目立ての話をしたのは確かだ。自分ですりゃあいいじゃねえか、とわたしが言うと、バカ、簡単にできるか、とどやされたことまで思い出すと、腹が立ってくる。その時は、たしかに素人が簡単にできるなんて言って失礼だと、親父に分があるようにおもっていたけれど、しかし、本当の昔にはきっと、のこぎりを使うということは目立てをも含めてのことだったのだ。ただのこぎりで木を切れるだけでは半人前でしかなかったということも想像される。とはいえやはり斧を研ぐことにくらべるとのこぎりの目立てが数段難しいことも容易に想像がつく。それでのこぎりがうとまれたということも多少理解できる。
しかし最後の理由はあまりに断定的すぎてあまり納得することができない。むしろわたしたちに容易に理解しえないことこそ、かれらがのこぎりに対して抱いていた嫌悪が強固であることの証明である、と言えばいいのだろうか。二つのあいだの違いを認識するためには、実は、その違いが生じている共通の地盤とそれへの認識が不可欠で、わたしたちの心理のうちを見渡しても見つかることのない、中世の人々の限りないのこぎりへの忌避感についていえば、この暗い感情の有無という違いが生じるための共通の前提を捉えることはできない。
さらにいえば、こののこぎりへの忌避の念は中世特有のものではなくて、近代にはいっても変わらずにあって、スイスのフランス語圏の作家で、だからスイス人作家といえばいいのか、フランス語による文学だからフランス文学といえばいいのかわからないが、とにかくスイスの山あいに営まれる田舎の生活に寄り添って文学をつむいだラミュが「森での一幕」という短編を書いていて、興味深いことにそこには斧ではなく、鋸の音について言及していて
「若手組は両端に把手がついた長い歯の並ぶ刃、しなやかでつやつやした刃を持って進み寄った。その歯を切り口の奥へまっすぐに当てる。二人の動きは狂いがなく、固苦しい。一人が引き、もう一人が押す。行ったり来たり、単調だ。聞こえるのは微かな擦過音と、時々ギイと軋る音だけ。木はもはや、気高く嘆くのではなく、溜息をついている。鋸を使う男たちのほうも、挙げた腕と横へ振れる胴体、前へ投げる腕といった気高い身ぶりに欠けていた。一撃を加えるたびに、こめた力が胸の底から引き抜く「ハッ!」という一種の高貴な唸り声も、もはや耳にすることはない。」
と、なにか気に食わない様子が感じられる。そして、続けて、まさにパストゥローいうところの「のろく卑怯」というのこぎりに対する印象をラミュも共有しているようだ。
「鋸を操る男たちは赤くなり、歯を食いしばっている、といのもやはりきついことは間違いないからで、ただ進み具合は一目ではわからず、秘められ、内に留まり、食いこんでいく傷の存在は二箇所から噴き出すおが屑が少しずつ積もったすえ、幹の左右に木屑溜まりをつくることでしか目に見えない。それでも、ともかく進んでいく、着実に進む、ゆっくりと着実に。鋸はとうにブナの心材に深く入り、芯の芯、つまりごく小さな淡い円で示される中心点に達しつつあった。」
くさびを叩く音
光の斧の音が響いてくるには遠すぎる時代まで来てしまった、と簡単には言い切れない。
木の傍にかがんで、大きなチェンソーの重たいスターターロープを引くと、森閑としていた林が一気にやかましくなる。エンジンの激しい鼓動をさえぎるためにヘルメットのイヤーマフを下げて耳に当て、高速で回転する刃が掻き出す木屑を防ぐために顔の前までメッシュガードをおろすと、視覚と聴覚はなまって、かえって集中するのか、伐採する木と自分だけの世界になる。伐倒方向へむけて三角の受け口をつくり裏側から追っていく。すると、巨木はやがて傾きはじめて、とはならないで、木が傾く手前でアクセルから手を離しチェンソーを引きぬく。エンジンをとめて、イヤーマフとメッシュガードを外すと森はまた静かな明るい森にもどる。だが、ぼんやりとはしていられない。追い口にくさびを差し込み、ハンマーで叩き込んでいくと、静寂をとりもどした森に、ハンマーでくさびを叩く音だけが丁々と響く。
しかしその響きから沼に差す陽を想起する余裕はなくて、腕を目一杯振り上げて振り子のようにして必死にハンマーをくさびに叩きつける。するとやがて意図せぬ一打がCoup de greace、恩寵として与えるとどめの一撃とでもいったらいいようなものになって、ついに大木は戻れない傾きにかたむく。追い口で切りすぎないで、つるをしっかりと残している木はあんがいとゆっくりと倒れていくもので、つるはどこまで傾いてもしぶとく粘るが、すこしずつ、ぱきぱきとつるが離れていく音がして、しだいに傾きは増していく。ほとんど身を横たえるといった具合に、弧を描く梢はしずかに地面に近づいていく。それでも半世紀は生きている巨人が身を横たえるのだ、地面にぶつかって大地と大気は大きく震える。
その巨木が地面に横たわる衝撃はわたしの胸と鼓膜を心地よく震わして、明るくなった森林は新しい世界という感じがする。ふたたび静寂を取りもどした緑のしじまで最初に耳にする鳥の声で、さっきまでイヤーマフを突き破ってくるエンジン音に神経を掻き乱され、空っぽになっていた精神が満たされる。ジッドの『田園交響楽』で、養父と晴天を散歩している盲目の少女が鳥の声を耳にして、養父に、これは空の鳴き声かと尋ねる場面があったような気がするのだが、探そうとしても、薄い本なのになかなか見つからなくて、だからそれはわたしの記憶のでっちあげかもしれないのだが、それでも、その少女が聴いた鳥の声もきっとこのように美しいものなのだったのだろうと思う。
大木が地面に倒れる音は、今も昔も、斧でもチェンソーでもきっと変わりはなくて気持ちがいい。大きな木が音を立てて倒れる音は胸いっぱいにせまってくるから、伐倒してしまうと、さっきまで木を倒すためにハンマーでくさびを打っていた音を忘れてしまっている、なんていうと、魚を獲れば竹籠を忘れるし、兎を獲れば罠を忘れるんだから、意味を了解したら言葉なんて忘れてしまえばいいのだ、とかいう荘子じみた話になるが、じっさい、チェンソーのやかましい音は嫌でも耳に残るのに、くさびを叩く音は忘れている。伐倒を終えて緊張を解いた精神を最初に揺さぶるのはいつも鳥の声で、その世界の新生を告げるさえずりはいつまでも耳に残る。
それで、山でハンマーがくさびを打っていても、その音の響きに聞き入ったり、斧の音を類推したりすることができないまま、斧の音というものを夢想し続けることになる。
山の奥から響いてくるチェンソーの回転音もふもとで聴くと不快ではなくて、山に人がいて、その人が働いていることをおもうだけでのどかな気分になる。「煙草」の主人公が耳にした斧の音も森の奥から聞こえる響きだった。わたしも、自分で木を切るんでなしに、家の裏の山を登って、広い池のほとりで佇みながら、どこかの山からハンマーがくさびを叩く音が響いてくるのをまっていれば、光の斧の音というものがわかるかもしれない。