追いかける
殺すことの倫理
うさぎは灰色がかった白いからだをしていた。遠目にもそれとわかるうさぎ特有のあのシルエットで山道の脇にしゃがんだまま、車のライトに照らされてもたたずんでいたが、エンジンのうなり声が近くまでくるとようやく坂道を下っていって、曲がり道の向こうに消えていった。と、おもえば、すぐ先でまたしゃがんでいる。急傾斜地をむりやんこ崩して平たい道を通したような林道で、左手には人丈ほどに垂直の壁が切り立っている。その反対側は道のすぐ脇から急峻な斜面の荒廃した竹まじりの雑木林で、うさぎは登れるような場所を探して山の上を見上げ、ひるがえって右側の崖になんとか降りれるような場所がないか覗きこんでは、またきびすを返して、と、繰り返し車道を蛇行しながらわたしを先導するようにどこまでも跳ねて山道を下っていった。
追い詰めないようにわたしが牛歩で進んでいても一向に右へも左へも活路を見出せずにいて、どこまでも跳ねていくその小さなすがたにはいのちの躍動に満ちていて、エランというものを想起しながら、愛らしくおもった、それで車内だから誰が聞くでもなしと思って、かわいいなあと呟いた。しかしわたし自身はたしかにそれを聞いていて、だから胸がくるしくなった。
わたしはいましがたうり坊3頭を電気刺殺してきたその帰路なのだから。
目の前を跳ねまわるうさぎ同様に躍動していた小さないのちをわたしは奪ったのだ、という事実が胸に迫った。気づくとうさぎは意を決して崖下に最後の跳躍を残して消えていった。
いのししを止めさしした山を降りて、わたしの家のある山へと登っていくころにはすでにとっぷりと日は暮れていた。車道の両脇は最近草刈りされたばかりで綺麗だと眺めていると、ヘッドライトの中に白いゴルフボールほどのものが見えた。通り過ぎた車をバックして、獣にあったら困るなあと思いながら、同時にまあ大丈夫だろう滅多なことでは遭遇なんてしないさ、とも楽観しながら車を降りて道の左側の山脇を確認すると、なんてことはないきのこで、わたしの手頃な図鑑にも載っていないやつ、オニフスベかなにかだった。なんだなんだと思って車に戻り、仕事終わりに止めさしをして、道草もするだけした、さあ帰ろうかとアクセルを強く踏めば、左手のやぶから黒い小さな四つ足が飛び出してきた。うり坊だと思うが早いかブレーキを踏んでなんとか直前でとまり轢かずに済んだ。
もう思うだけ殺生した帰路、もう一匹殺したところでなどとはおもえず、頭に浮かんできたのはうり坊がわたしの車のタイヤの下敷きになって、まだそう頑丈ではない肋骨がもろくも砕け、内臓までめちゃめちゃに潰れる様子で、その無惨なさまにはとても耐えられない心地がした。うり坊はとまりも引き返しもせずに駆け抜けて向こうの竹藪の影に消えていった。ひとつの命をつぶさずにすんだ安堵が残った。
ブレーキを踏んだのは、野生動物が飛び出してきても後続車の衝突を避けるためにブレーキを踏まずに駆け抜けるんだよ云々という教訓が、後続車が不在であると確認の取れた意識と相殺される前だったか、どうか。それでもブレーキを踏めたことはわたしを安心させて、というのはこれは象徴であると信じたから、生き物の命を奪う状況にあってもわたしはまだブレーキを踏めるという。
動物愛護云々ではなしに、もっと直裁に、他の生物への人間的なほとんど理由のない愛着を抱くということと、その生物を殺すということは少しも矛盾しなくて、実際わたしのなかにはそれらが同居しているということに今日の出来事は意識を向かわせた。
命の尊厳たら命の価値は平等だとやらいう概念かその形骸、せいぜいのところ標語程度にしかわたしたちを反省に向かわせない言葉の屍ばかりが道徳だ倫理だとお勉強してきてしまっては、生命にかかわる倫理が実は、殺すことの倫理をふんだんに含んでいる、しかも含んでいながら事件現場よろしくブルーシートで覆い隠されてしまっているからには殺すことの倫理が考えられることがないのは仕方のないことで、死から遠いところで営まれているわたしたちの住む社会にあっては別にそれでいいのかもしれない。ただそれがまかり間違ってへんてこな生命絶対尊重思想を生み出してしまうのは残念至極と言わざるをえなくて、人間を死すべきものと捉えていた古代ギリシアの人々のうちでも優れて知恵ある一人の賢人が弓と生とがアクセントは異なるが共にビオスと発語されることにかけて言ったとされる「弓の名はビオス、その仕事は死」という鋭い言葉に射られて新生することを切に願うばかりだ。
秋の歌
わたしは目下さると栗拾いを競っているが、けしてさるを恨んではいないし、わたしのさる檻はさるがわたしの狙う柴栗を先に食い散らかしてしまうから設置してるのでもない。さるの群れを一掃してもしなくてもわたしはいぜんとして柴栗を満足に集めることはできないのだ、きっと。りすやらくまやら、好敵手には事欠かないのだから。
盛夏を過ぎてもとんと涼しくならない日々のなかにあって、最近、竹加工所でひたすら作業をしていると、開け放ったシャッターからようやくすずしい風が吹きつけるようになった。そのたびにわたしは手をとめて風が吹いてくる方向に顔を向ける。あたかも秋がそちらからやって来るのを見迎えるために。日一番の強風が吹いて木の葉のざわめきがさわがしくなると、シャッターは山腹にある加工所からの眺望を切り取る額縁で、この四角い画角一面に小さな影が舞った。はじめだれかがどこかで野焼きする竹の葉の燃えた灰かと思ったが、それは工場のちょうど上に一本すっくと伸びたケヤキから舞いおちる枯れた枝葉で、葉末に砂利粒みたいな種子を抱いて飛んでいた。あるものは器用に視界のはるか遠くまで飛んでいくなかにあって、無様にわたしの足元ていどにしか届かないのもあった。紅葉も落葉もまだだったがたしかにもう秋だった。
このように秋がきてみても、ボードレールが耳にした
須臾にして我等は入る、冷さと闇に、
さらば、生きて輝きて去る夏の光よ。
既に我は聞く、とむらいの響きをもて、
枯れ枝の敷石を打ちて落つるを。
という秋の暗い響きはわたしには聞こえない。たしかに道脇のケヤキの株元にあたかも自らを弔う墓標を立てたといったおもむきで垂直に突き刺さった枯れ枝は巨人の腕のようにおそろしく、どれほど地面深くまで突き刺さっているのだか想像もつかないが、それを揺すり落とした狂風のすさまじさは感じられる。しかし、
聞きつつ単調なるその響きに揺すられて、
何処にか人取り急ぎて棺に釘打つと覚ゆ。
誰が為に?ー昨日夏なりき、今茲に秋なり。
とはとうてい思えない。特に今年のような酷夏であれば、おそらく夏を悲しく弔う者はない。それもここ数週間のことで、日に日に風が冷たさを増していくにつれて、ボードレールの詩もわたしたちにとむらいの響きと聞こえるようになるのだろうか。
とにかく茶色い枯葉を乗せた秋風はむしろ、わたしには栗が湿った地面に落ちるさまを想起させて、わたしたち襲撃者の手の皮を刺すイガは自然落下に際しては優しいクッションとなって、栗が地面に落ちるその響きはすがたに似合わずきっと無上に優しい。
なにはともあれ動物たちの採集は素早い。夕方に落ちた栗は翌朝にはイガだけとなり、今朝落ちた栗は昼には空っぽになっている。わたしががっぱになって仕事の合間に道路脇の栗の木の下を探しても無駄である。わけてもわたしが栗の木へと向かうとひと足先、いましがた到着したといったおもむきで木の枝やら株もとやらに座っているさるを見るとやるせなくなる。
ニーチェは「怪物と戦う者は、自分もそのために怪物とならないように用心するがよい。」と言い、パスカルは「人間は、天使でも獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。」と言った。そしてわたしはさるに先んじようとしてやがてはさるになることを恐れる。だからことしも柴栗を諦めるはめになった。
しかしはたしてさるに勝る木登り巧者となることは人間からの上昇だろうか、あるいは下降なのだろうか。